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.........10723:北海道日本ハムファイターズ
{{野球チーム
|ページ名 = 北海道日本ハムファイターズ
|チーム名 = 北海道日本ハムファイターズ
|会社名 = 株式会社北海道日本ハムファイターズ
|加盟団体 = パシフィック・リーグ
|創設年度 = 1946年
|チーム名の遍歴 =
|フランチャイズの遍歴 =
|本拠地 = 札幌ドーム
|キャパ = 札幌ドーム固定客席:40,476席フィールドシート:202席車椅子用席:117席ファミリーシート:50席
|永久欠番={{nowrap begin}}00:使用休止{{!wrap}}0:使用休止{{!wrap}}100:大社義規{{nowrap end}}
|オーナー = 大社啓二
|スポンサー = 日本ハム
|監督 = 梨田昌孝
|アジアシリーズ優勝回数=1
|アジアシリーズ優勝=2006
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{{基礎情報 会社
|社名=株式会社北海道日本ハムファイターズ
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|国籍={{JPN}}
|郵便番号=062-8655
|本社所在地=札幌市豊平区羊ケ丘1番地
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|代表者=取締役オーナー 大社啓二
代表取締役社長 藤井純一
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|特記事項=
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北海道日本ハムファイターズ(ほっかいどうにっぽんハムファイターズ、Hokkaido Nippon-Ham Fighters)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団の一つである。
北海道を保護地域とし、札幌市豊平区にある札幌ドームを本拠地としている。この他、2003年までの本拠地で現在も準本拠地としている東京都文京区にある東京ドーム(後述)、北海道内の地方球場(後述)でも主催公式戦を開催している。
なお、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は千葉県鎌ケ谷市にあるファイターズスタジアムである。
球団の歴史
東京時代
セネタース・東急
1945年 - 1946年
- 1945年11月6日、戦前の東京セネタースの中心人物だった横沢三郎がセネタース再興を目指し、新規にセネタース(企業名:セネタース野球協会)を設立。再発足した日本野球連盟に加盟。1946年度のリーグ戦にゴールドスターと共に新球団として参加した。
- 大下弘、飯島滋弥、白木義一郎など即戦力選手を集めたが、横沢個人で立ち上げた球団だったため財政的に厳しく、ユニフォームは戦前の阪急軍のお下がりという状態だった。
- 旧華族の西園寺公一をオーナーに付け、銀座のキャバレー経営者で高利貸しを兼ねていた織手登がスポンサーになったものの、結局資金不足に陥り、横沢は球団経営を諦めざるを得なくなった。
- なお、東急・東映社史ではセネタースを「青鞜」と表記する場合がある
[これは、読売ジャイアンツの前身の東京巨人軍が「巨人」の愛称で呼ばれることを受けて、鈴木惣太郎が「他の球団も巨人と同じように愛称で呼ぶことにしよう」と考え、大阪タイガースを「猛虎」、セネタースを「青鞜」、パシフィックを「太平」と命名した名残である。しかし、巨人以外の他球団が愛称で呼ばれることを拒否したため(ただし、阪神においては、公式な愛称としては定着しなかったが、現在の打線のネーミングは「猛虎打線」である)、定着しなかった(参照)。]。
1947年
- 1月7日、東京急行電鉄に球団権利金24万円を合わせ、合計35万円でチームを売却
[大川博著書・真剣勝負に生きるp77]。株式会社東急ベースボール倶楽部が発足し、チーム名を東急フライヤーズ(とうきゅう-)とした。当時の東急はまだ大東急と呼ばれていた時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。専務の大川博がオーナーに就任した。こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。
1948年
- プロ球界入りを画策して国民野球連盟にも接近し、大塚アスレチックスと幾つかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映球団が経営に参加し、企業名を東急大映野球、チーム名を急映フライヤーズ(きゅうえい-)に改称した。しかし、金星スターズを別途買収することが決まった大映はフライヤーズの運営から手を引き、球団名とチーム名は1年で元に戻った(大映ユニオンズを参照)。
- 2軍チームの名称「チックフライヤーズ」は、急映のフライヤーズに大塚アスレチックスのチックを絡ませた名称だった。
1949年
1953年
東映・日拓ホーム
1954年
- 2月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていた東映に球団運営を委託。東映は子会社の東映興業に球団を移管。チーム名を東映フライヤーズ(とうえい-)に、法人名を東映フライヤーズ野球団にそれぞれ変更。1972年まで19年間続いた
[東急ベースボール倶楽部は休眠会社として存続]。
1961年
- 水原茂が読売ジャイアンツの監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、京都や銀座にバー「おそめ」を開いていた上羽秀の恋人でもあった俊藤浩滋を呼ぶ。水原とは飲み友達だった俊藤はマキノ雅弘ら映画人とも知合いで、大川にも可愛がられていた。この招聘工作から俊藤は東映に深く食い込んでいく。
1962年
- 東京オリンピック(1964年)の整備計画のために駒沢球場が取り壊されることを受け、新宿区の明治神宮野球場に本拠地を移転した(当時は学生野球優先がまだ残っていたことから、週末など日中に学生野球がある時は後楽園など他の球場を借りた)。水原監督の下で土橋正幸と尾崎行雄の両エースが活躍し、初のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも阪神タイガースを破り、念願の日本一に輝く。これが東映時代の唯一の優勝となった。
1964年
1968年
- 球団史上初の最下位に終わり、同年監督に就任した大下弘はシーズン途中で休養した。
1970年
- 「黒い霧事件」発生。エースの森安敏明が永久追放を受け、映画産業の斜陽なども響いて人気が低迷していく。
1971年
- 名物オーナーだった大川が急逝。東映はアンチ大川と目された岡田茂が社長に就任し、岡田の盟友で球団所有権を有する五島昇東急社長と共に、大川色が強く不採算だった球団を手放した。
1973年
- 2月7日に岡田・五島共通の知人で、首都圏で不動産産業展開する西村昭孝の日拓ホームに身売り。チーム名を日拓ホームフライヤーズ(にったく-)に改称し、西村は低迷したパ・リーグに活気を取り戻そうと7色のユニフォームを開発するなどして球団運営に様々な新機軸を試みたが、結局不発に終わる。パ・リーグに将来はないと見切って、1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策したが調印寸前で反故にされ、西村は球界に嫌気が差して球団経営を放棄。わずか1シーズンで日本ハムに売却した。
日本ハム(後楽園)
1973年
- 11月19日に日本ハムに売却。チーム名は日本ハムファイターズ(にっぽん - )、法人名は日本ハム球団株式会社になり、球団社長に三原脩、監督に中西太が就任、「フライヤーズ」のニックネームは27年で消滅した。
1974年
1975年
- 前・後期共に4位ながら、総合最下位に終わる。高橋直樹が17勝。
1976年
1979年
- 高橋直樹が20勝。島田誠が1回3盗塁をはじめ、55盗塁を記録。
1980年代は津野浩、柴田保光といった投手が活躍。
1980年
- 新人の木田勇が22勝(8敗)で最多勝獲得、MVP・新人王など、タイトル投手部門を独占。後期は最終戦を前に優勝にあと1勝までこぎつける。最終戦の対近鉄戦(後楽園球場)は満員の観衆を集め、急遽NHKがラジオで実況中継したほどであったが、3回から登板した木田が打ち込まれて敗れ、近鉄の逆転優勝を許した。
- オフには広島とのトレードで高橋直樹を放出し、優勝請負人・江夏豊を獲得。
1981年
- 江夏が当時存在した12球団からセーブを奪う。
- 後期優勝。プレーオフで前期優勝のロッテを破り、東映時代から数えて通算2度目のリーグ優勝。巨人との日本シリーズ(通称「後楽園決戦」)では井上弘が活躍するもトミー・クルーズの故障離脱が響き2勝4敗で敗退。
- 打撃陣ではクルーズの他、柏原純一、トニー・ソレイタらの活躍が光った。また、島田や菅野、高代といった小兵選手が優勝メンバーに多かったのも特徴だった。
- 間柴茂有が15勝無敗。ソレイタが本塁打・打点の2冠王。岡部憲章が防御率1位。江夏がセーブ王。柏原がプレーオフMVP。
1982年
- 後期優勝も、プレーオフで前期優勝の西武に敗れ、2位に終わる。シーズン途中に骨折し、復帰は絶望とみられていた工藤幹夫がプレーオフ第1・3戦に先発し、「一世一代の大芝居」として話題を呼ぶ。
- 工藤幹夫が20勝で最多勝。高橋里志が防御率1位。
1983年
- 1シーズン制元年。二村が新人王。江夏が3年連続最多セーブ。
1984年
- 植村義信が監督に就任するも、最下位に低迷するなど、成績不振のため途中解任。終盤は大沢が代行した。
1985年
1986年
1987年
- 後楽園最終年。西崎幸広が新人にして15勝(7敗)・防御率2点台と大車輪の活躍。
日本ハム(東京ドーム)
1988 - 2003年までは後楽園球場の後継球場である東京ドームを使用。この頃になると西崎幸広や柴田保光らが投手王国を形成。観客動員のアイディアとして「カップルシート」、「ビアシート」などのチケット販売や近藤貞雄発案といわれる「キスをしたら入場無料」、「仮装で来たら入場無料」「3連戦一枚でいつでも入場可能」といったイベントなどを打ち出す。しかしこの16年間でリーグ優勝は1回もなかった。
1988年
- 東京ドーム元年。西崎、松浦宏明が最多勝、河野が防御率1位の活躍でチーム防御率も1位だった。しかしチーム打率、得点数がリーグ最下位という貧打で、2年連続3位は確保したものの勝率は5割を切った。観客動員数が過去最高の245万8500人を動員する。
1989年
- 高田監督が辞任し、近藤貞雄が就任。前年とは変わって、投手陣の不調で5位に終わる。
1990年
1991年
- 白井一幸が最高出塁率。武田一浩が最優秀救援投手。貧打線で5位に終わる。
1992年
1993年
- 大沢が監督復帰。リーグ2位でわずかの差でリーグ優勝を逃した。広瀬が初のベストナインに選出される。
1994年
- チーム打率、防御率共に最下位という状況で、リーグ最下位に終わる。最終戦には東京ドームのマウンド上で大沢監督自ら土下座でファンに謝罪した。観客動員数が東京ドームを本拠地に使用後、初めて200万人を割り込んだ。
1995年
- 大沢が勇退し、上田利治が監督就任。
- 西崎がノーヒットノーラン達成。キップ・グロスが最多勝。田中幸雄が打点王を獲得。
1996年
- 上田監督がシーズン終盤に家庭の事情により休養し、チームを離脱(結果的にオリックスに逆転優勝を許す遠因となった)。
- グロスが最多勝、金子誠が新人王、島崎が最多ホールドを獲得。
1997年
1998年
- 長年、チームのエースであった西崎を西武との交換トレードで放出、石井丈裕、奈良原浩を獲得。
- 開幕直前にヤクルトとの交換トレードで城石憲之を放出し、野口寿浩を獲得。
- ウィルソン、ジェリー・ブルックス、田中幸雄、片岡、西浦、小笠原道大を擁してビッグバン打線と呼ばれた。前半戦は首位だったが、西武に大逆転され優勝を逃した。落合が引退。
- ウィルソンが本塁打・打点王。金村が防御率1位。片岡が最高出塁率。
1999年
- 小笠原が1塁コンバート、「史上最強の2番打者」として活躍。
2000年
- 上田が辞任し、大島康徳が監督就任。小笠原が最多安打。強力打線で優勝争いに加わるも、ダイエーと西武に敗れて3位に終わる。
2001年
- 小笠原が最多安打。シーズン序盤から野手陣に故障者が続出し、強力打線が低迷、7年ぶりのリーグ最下位に終わる。観客動員数が137万6000人まで落ち込む。
2002年
- 観客増を図るため、それまでプロ野球球団がなかった北海道の札幌市に本拠地を移す構想が、3月20日刊の北海道新聞でトップ記事になる。
- 東京のファンや、同市の準本拠化を計画していた西武からの反発もあったが、西武には他球団の公式戦試合も札幌ドームで開催できるという条件を付けて移転を受諾させ、東京のファンには、移転後も数試合を引き続き東京ドームで主催試合を行う事を約束した。
- 小笠原が初の首位打者を獲得。正田樹が球団では金子以来の新人王。しかし、選手層の薄さでチームは5位に終わる。
2003年
- 成績不振から大島監督が解任され、トレイ・ヒルマンが監督就任。東京ドーム最終年。小笠原が2年連続の首位打者と最高出塁率を獲得。オフに打の柱として新庄剛志(登録名「SHINJO」)、投の柱として巨人の入来祐作を獲得。チームは2年連続の5位。
札幌時代
北海道日本ハム
2004年
- 本拠地を札幌ドームに移転。チーム名も北海道日本ハムファイターズとし、地域に密着したチーム作りを目指す。既存の球団会社(日本ハム球団株式会社)は新会社(株式会社北海道日本ハムファイターズ、2003年8月設立)へ球団運営権を譲渡し、旧会社は特別清算手続きをとっている。同時に、地元北海道の有力企業からの出資を受け入れている。
- 同年からパ・リーグに導入されたプレーオフ(上位3チームが進出する、リーグ優勝を懸けたトーナメント)出場を、千葉ロッテマリーンズとシーズン終盤まで争い、9月24日の対オリックス・ブルーウェーブ戦で、プレーオフ進出を決めた(4位ロッテとは0.5ゲーム差)。なお、プレーオフでは2位の西武に1stステージで敗退。
- セギノールが44本塁打で本塁打王。建山が最優秀中継ぎ投手。横山が28セーブで最多セーブ。
- この年のドラフト会議では、東北高校のエース・ダルビッシュ有と済美高校の強打者・鵜久森淳志という同年の甲子園を沸かせた2大ヒーローの入団が決定。
2005年
2006年
2007年
2008年
- 7月18日、稲葉とダルビッシュが北京オリンピックの日本代表に選出される。
- 9月13日、MICHEALが球団史上初の通算100セーブを達成。
- 10月1日、レギュラー最終戦で、前身球団を含めて球団新記録の28安打を記録。更に3位が確定し、クライマックスシリーズの出場権を獲得。
- この年は多くの故障者に悩まされた(開幕から最終戦を通して1軍にいた野手はわずかに4人で見ると、同年3月24日に行われた岡島秀樹と、實松一成、古城茂幸のトレードから数えて、14人の選手がトレードによる入団、15人が退団であり、これは毎年約6人の選手がトレードで入れ替わるペースである。
一方で、FA宣言の選手の獲得は、若手の育成を優先するチーム方針や高年俸などがネックになり、消極的だったとされる中、2004年オフに唯一稲葉篤紀をFAで獲得している[ただし、稲葉も当初は大リーグ入りを目指したものの、応じる球団がなく断念し、国内で唯一オファーがあった日本ハムに移籍したものである。]。その後2007年には首位打者となり、2009年に主将に就くなど、チームの顔として活躍している。
現在に至るまで唯一盗塁王は一人も輩出していない。張本勲と島田誠は、かつて共に通算300盗塁を記録したが、広瀬叔功や福本豊がタイトルを保持し続けた期間が長く、タイトルを取れなかった。大下剛史は広島移籍後の1975年に盗塁王になった。
1990年代は「ビッグバン打線」を中心とした攻撃型チームであったが、2004年の本拠地移転以降は投手力・守備力主体のチームとなり、「犠打で送り、ヒットで確実に1点を入れる」スモールベースボールを導入した。
選手同士仲がよく、選手とファンの距離も非常に近く、移籍当時の坪井智哉はこれを「アットホームすぎる」と表現した。このチームカラーは多摩川時代から確立されており、整備が整っておらず自ずと選手とファンの距離が近くなる環境が生んだ伝統である。http://kitaham.hp.infoseek.co.jp/game/2004/tamagawa01.html
1998年に韓国人と日本人のハーフの森本稀哲を獲得して以降、2004年のドラフト会議でイラン系のダルビッシュ有、日本とオーストラリアの二重国籍のマイケル中村、2005年には台湾人留学生の陽仲壽、2006年にはインド系のダース・ローマシュ匡、2009年ドラフトでアメリカ人と日本人のハーフの運天ジョン・クレイトンを指名するなど、国際色豊かなチームである。
球団の観客増加戦略
- 札幌ドーム公式戦で、対象地域の道・市・区内在住者・在職者を対象に一塁側内野指定席券が一律1,500円の「なまらチケット」、平日ナイターの午後7時15分以降の入場者を対象に通常の価格のおよそ半額で入場できる「715チケット」(2007年までは午後7時30分以降の入場者を対象とした「730チケット」)を発売している。これらに加え、2005年からは全ての道民が対象の「なまら!超割チケット」、駐車券付きの「カルテット」、その名の通りビール券付きの「ビール券付き」等のグッズ付きチケット限定チケットも発売されている。
- 2009年には12球団初の、携帯電話のQRコードによって、チケットレスで入場できるシステム「チョッQR」も導入した。
- 2009年7月11日と12日に開催された「KONKATSUシート」は当初は2日間で400人を募集も、2860人の応募があり、そのうち、女性が応募初日に規定枚数を越える応募、男子は半分以下となり、急きょ定員を600人に増員した。初日に28組が、二日目には34組のカップルが成立した。因みに、結婚までこぎつけたら始球式の権利が与えられる。
- 2010年からウィークデー割引(平日割引)、女性限定席(通称:シンデレラシート、1人につき、荷物置場として2席が割り当てられる。)を実施した。シンデレラシートは、テンピュールクッションや、オペラグラスが常設されていたが、3日間で備品の盗難が続出し、球団は多くの損失を被った。
[シンデレラシートで盗難続出]
- その結果、札幌ドームではオープン戦や消化試合でも日本ハムファン応援席のレフトスタンドが常に満員になるようになり、ライトスタンドのビジター応援席を除き、ほぼ球場全体が日本ハムファンで埋められるようになった
[ただしセパ交流戦の対阪神戦に限り、現在もライトスタンド全体とライト側の内野席は、ほぼ阪神ファンで埋められる。]。2005年以降は、93年以来の100万人超の観客動員を続けており、これはソフトバンクに次いでリーグ2位である。
東京時代
- 戦前の東京セネタースとは資本の面でも球団系統の面でも関係ない。ただし、セネタース・東急時代の項目にあるように、東京セネタースの後継を目指して設立された球団である。
- 1947年-1973年に使われた愛称「フライヤーズ」は鳥の英語表現から取っているが、東京急行の「急行」の意も含むという説がある。水原監督時代のホーム用ユニフォームは、「FLYERS」の「F」の部分が空を飛ぶ鳥の隠し絵になっていた。「フライヤーズ」の商標は現在も東映が保有し、2007年まで東映アニメーションの公式サイト内告知・イベントレポート欄で使われておりサイトの開設当初は隠し絵のロゴもそのまま使われていた。また、1974年から使われている「ファイターズ」は「闘士」の英語から取った。略号は「Fs」。
- 「ファイターズ」の名は公募によるもので、名付け親となったのは岡山県の女子高生であり(ファイターズと名付けた人は、後の本拠地となる北海道を含めて多数いた)、「大杉勝男選手が、ガッツがあるファイターだから」というのが命名理由である(大杉は岡山県出身)。これは派手な乱闘試合が少なくなく、「駒沢の暴れん坊」と呼ばれた東映時代の荒っぽいイメージを引き継いだ名称ともいえる。しかし、東映時代の主力は多数がトレードされ、大杉もヤクルトに放出されてしまった。また、公募で名前を決定する際、フライヤーズ時代に敬意を表して「F」で始まる言葉にしたともといわれている。
- 1962年にパ・リーグを制し、日本シリーズで阪神タイガースを破ったが、この時、オーナーの大川博は背番号100のユニフォームを着て優勝パレードに参加。さらに「東映優勝 背番号100」なる記録映画を制作し、全国東映系で上映した。
- 当時のフランチャイズは巨人と同じ後楽園球場だったため、日程面でどうしても不利な面が多く、日本ハムと巨人の後楽園での同日試合開催は極力組まれていなかったが、それでも同日開催の場合(特に共に前年Aクラスでセ・パ同日開幕戦の時)は日本ハムがナイター、巨人がデーゲーム(当時の巨人は日曜日のデーゲームも珍しくなかった)という原則があった。ただし、日本ハムは猛暑の時期を除き、土、日曜はデーゲーム開催で、小学生のファンクラブ(少年ファイターズ会)の会員が外野スタンドに集結し、観客動員の集客を図っていた。日本ハムはプロ野球界におけるファンクラブの先駆けであった。同時に日本プロ野球界初のマスコットキャラクター「ギョロタン」も登場した。
- 先述の通り、後楽園・東京ドーム時代、試合日程は常に巨人優先で組まれていたため、都市対抗野球による遠征のしわ寄せをまともに受け、その長さは阪神の「死のロード」に匹敵するものだった。特に8月は子どもが夏休みなので、家族連れが多く来る稼ぎ時として人気球団の巨人の試合が多く組まれ、日本ハムはロードを余儀なくされた
[1998年8月のドームでのホームゲームは盆休みの3日間だけであった。]。
札幌時代
- 2004年、専用球場を札幌ドームに移転したが、札幌ドームはすでに2001年度からJリーグのコンサドーレ札幌がホームスタジアムとして使っていた(札幌厚別公園競技場と併用)。プロサッカークラブとプロ野球チームが同じスタジアムを使うのは日本初の事例で
[アメリカ合衆国ではオレゴン州・ポートランドで、1975年から1982年まで北米サッカーリーグのポートランド・ティンバーズとAAA級のパシフィック・コーストリーグに所属するポートランド・ビーバーズが、また2001年から現在までユナイテッドサッカーリーグのティンバーズと同じくビーバーズが、PGEパークをともにホームスタジアムとして使っている。また、アメリカではメジャーリーグベースボールとアメリカンフットボール・NFLの本拠地を共有する事例がある]、球団事務所もそれぞれ札幌ドーム内に併設されている。2006年には、コンサドーレとの共通入場券も発売している。
- 札幌ドームでは、施設のレイアウト面やアクセス面で3塁側の方が便利であり、スコアボードとして使われている電光掲示板が3塁側からの方が見易いため、ホームチームが3塁側ダグアウトを使用する。ホームチームが3塁側ダグアウトを使用するのは日本では日本ハムが初である(東京ドーム等の他球場で主催試合を行う時は1塁側ベンチに座っている)。
- ファイターズはニューヨーク・ヤンキースとの交流や、アリゾナ・ダイヤモンドバックス、サンディエゴ・パドレスとの業務提携など、比較的多くの外部接触を持っている。地元の北海道との関係についても、積極的な球団である。これは、北海道という広大な土地で、球団により親しんでもらおうという球団の戦略である。ファイターズの球場外での活動としては以下のようなものが挙げられる。
- YOSAKOIソーラン祭り等の地域文化活動への参加
- OB、北海道出身選手による毎週末のコーチングキャラバン
- B.Bイベント出張
- ファンから年賀状を一般募集、選手と食事会
- 選手達の学校訪問
- 練習施設の一般公開
- HNFベースボール・クラブ(後述。オフシーズン中に行う、中学3年を対象にした週1回の野球塾)
- オフィシャルショップ、レストラン建設
- 「旬感!北海道」という道中のJAと連携し、北海道の農産物をお取り寄せ、農家に還元というサイトを球団に設置(2009年1月現在停止中)
- 「選手ディナーショー」や野球界初となる球団マスコット「BBのディナーショー」を毎年札幌グランドホテルで開催。
- 道内各地で選手のトークショーを開催(2006年より)
- 先述の「なまら!チケット」等の道民優遇特典
- ファイターズガールがJR帯広駅東コンコース特設会場でダンスパフォーマンス、記念撮影。またみどりの窓口と改札担当係員は、日本ハムのユニフォームを着て接客
- 北海道スポーツ振興のための基金「ファイターズ基金」を設置。
- また、日本プロ野球初の公式ファンクラブや着ぐるみのキャラクター導入など、新しい演出をする球団であり、札幌移転後は大幅な観客増を達成したことから、しばしば他球団が類似の企画を発表することがある。例えば東北楽天も「730チケット」に倣った「おばんですチケット」を販売、西武は「740チケット」、「なまら!超割チケット」に倣った、所沢市民応援デーを実施している。
- NPB全球団のなかでも選手の年俸総額は低い部類であるとされるが、メジャーリーグにならって「ベースボール・オペレーション・システム」という情報システムを開発・構築して全選手の能力を可視化し、現場とフロントが意識を共有して選手を適切に起用・育成することでチーム力を引き出す戦略をとっている
[ファイターズ快進撃の裏に、“本当に役立つ”情報システムありIT Pro 2009年4月21日 2009年4月24日閲覧]。
- 過去1人も育成選手を採用していない。これは日本ハムと西武のみである。
チームのスローガン
- 1999年:「Vへ一丸!」
- 2000年~2002年:「Be tough,Stay tough,Win tough」
- 2003年:「Ethos Pathos Logos(エトス・パトス・ロゴス)」~勝利への精神、勝利への情熱、勝利こそ意義~
- 2004年:「New Home,New Identity,New Dreams.」
- 2005年:「Faith,Hope,Love The Game」
- 2006年:「Dream Big;Play Hard;Live Strong!」
- 2007年:「Focus,Advance,Nexus Spirit」
- 2008年:「熱く、頂点(サミット)へ」~F・A・N・S '08~
- 2009年:「Re:Challenge」
- 2010年:「Feel it !」
応援スタイル
{{See also|鳴り物応援|チャンステーマ}}
東京時代
まだトランペットを使っていない1980年代前半頃の応援スタイルは、どの選手にも笛と太鼓で「ピーッピーッピピピピピピピッ」という決まりのものだったが、柏原純一にだけは「ピピピピピピピッ純一」というオリジナルのスタイルがあった(このスタイルは、柏原が阪神へトレード移籍した後も阪神の応援団が継承した)[現在、Kスタ宮城限定の小谷野栄一の応援コールで同じスタイルが使われる。ただしKスタでは笛が使用できない為、笛の代わりに太鼓を用いて「ドンドドンドドンドドン栄一」としている。]。
トランペットを使用するようになってからの応援スタイルは、各選手別応援歌を歌うようになった(用意されていない選手は汎用応援歌の選手部分を差し替えて歌う。ただし、交流戦のビジターで、投手が打席に立つ場合には、投手用の応援歌を歌う)。原則的には1回目は演奏なしでアカペラで歌い、2回目以降はトランペット演奏で歌うが、森本稀哲などファンファーレのある場合はそれに続けて1回目から演奏ありで歌う。田中賢介などのように選手コールの後で最初からトランペット演奏が始まる選手もいる。これ以外にも非公式だが、一部の選手には応援歌に合わせた動きをすることもある。
札幌移転後
札幌移転後、大半の選手別応援歌を除いて応援スタイルがやや変わった。攻撃開始やチャンスには「北の国から」、得点が入った時のテーマが「お〜い、北海道」など地元をイメージした応援歌になっている。また、東京時代は本拠地東京ドームでは使用不可であった太鼓の使用が札幌ドームで可能となり、ホームゲームでも太鼓を使用するようになった[東京ドームの主催試合のみ、基本的に移転前のスタイルが継続されている。ただし、2007年以降には太鼓を使用するようになった。]。
なお移転後も、従来のメイン応援歌「ファイターズ讃歌」は引き続き歌われている。歌い手にささきいさおが起用されたこともあり、2000年以降は速水けんたろうが歌っている。2007年からは速水の再録音版を使っている。
札幌移転後も東京の応援団は存続している。これは東京ドームだけではなく、西武ドーム、千葉マリンスタジアム、神宮球場、横浜スタジアムでも応援するためである。このため在京ファンには馴染み深い移転前の応援スタイルが使われる場合がある。2006年のアジアシリーズでも移転前の応援スタイルが使われた。そして、2007年から東京ドームでのゲームはホームビジターを問わず全ての試合で、移転前の応援スタイルで行われている(ただし、移転後にできた「北の国から」などのチャンステーマは使っている)。
ホームゲームで相手投手がノックアウトで降板するときは「Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye」を歌う。東京時代は海援隊の「贈る言葉」を応援団が演奏していた。札幌移転後もビジターゲームでは演奏する時がある。
2008年からは関東限定で映画『チキ・チキ・バン・バン』の主題歌、北海道限定で「ジンギスカン」、2010年オープン戦では、沖縄限定で『ハイサイおじさん』と、地域別でチャンステーマを取り入れている(2008年のクライマックスシリーズでは、両方とも使われた)。尤も、古くは2007年後半から東北地方の地域限定の応援歌がある。クリネックススタジアム宮城が鳴り物禁止であるから、数バージョンがある。
北海道移転当初の公式応援歌「Go! Go! ファイターズ」では、香瑠鼓による鳴子を振り付けに用いることがあった。7回裏、ファイターズ攻撃前にはマスコットのB.Bが登場し、スタンドの観客を率いて踊る。振り付けはYOSAKOIソーラン風であった。2006年は、YOSAKOIソーラン色を薄めた新しい振り付けになった。
札幌ドームの試合では、日本ハムの投手がカウントを悪くしてしまうと、投手を応援するための拍手が起こる。
現在の札幌ドーム、以前の東京ドームとジェット風船を禁止している球場を本拠地としているため、浸透性がないためか、ビジター・地方球場でもジェット風船を飛ばすファンは少ない。
試合後、日本ハムが勝利した場合に電光掲示板のカウントダウンと共にスタンド最上段(3階)から銀色の紙テープ(2007年からは金色に変更)「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ」時は銀色と青色の2色。2009年5月の「ファミリーシリーズ・さくらまつり」の時はピンクメタリック)10月の「炎の最終シリーズ」の時はレッドメタリックがバズーカで発射され、ゆっくりと舞い降りて勝利を祝う。移転初年度の2004年は紙吹雪を発射していたが、掃除に手間がかかること、野球・サッカーの共用スタジアムという性質上の問題などから2005年に廃止された。しかし勝利セレモニー復活の希望が多かったため、清掃しやすい現在のスタイルになった(札幌ドームのみ)。
金子誠の打席では、新撰組の「誠」の隊旗や法被が応援に使われている。
ファイターズガール(公式チアガール)のレプリカユニフォームを球団が販売している。ファイターズガールのユニフォームに似せた服を娘に着せて応援していた、ある家族連れの姿が、グッズとしてのレプリカユニフォームを製作するきっかけになった。
稲葉ジャンプ
{{Main|稲葉篤紀#応援}}
稲葉篤紀がチャンス時に打席に立つと観客がファンファーレに乗ってジャンプして応援する。また、稲葉ジャンプほどではないが、稲田直人と関東限定チャンステーマの時にもジャンプが起こる。ジャンプ自体は田中幸雄の応援でも行われていた。
ビニール風船を使用した応援
2005年ごろから特定の選手へのビニール風船を使った応援が始まった。
- 小笠原道大(2005 - 2006年):イルカ - 一時期、札幌市内と近郊の100円ショップからイルカの風船が消えるまでになった。
- セギノール(2005 - 2007年):バナナ
- 森本稀哲(2007年 - ):緑色のマイク。これは森本本人がヒーローインタビューで歌ったりするなどマイクパフォーマンスに長けていることからファンの有志が考案したものが広まったもので、札幌ドームの近所のファンが集まるラーメン屋で5000個作られて販売されたものである。
- 田中賢介(2008年 - ):人差し指だけ伸ばしたピンクの手
- スレッジ(2008年 - 2009年):ハンマー
- 鶴岡慎也(2008年 - ):鶴または、ガチャピンのバット - 札幌では鶴が普及している。
しかし、上記のグッズのうち森本のマイクと田中賢のピンクの手はあくまで「非公認グッズ」であり、売上金の一部を寄付と唱っている商品もあるが不明な点が多く、また、販売元は球団より販売中止要請を受けているにも関わらず販売を継続しているため、また風船を使って席取りをしたりする観客がいるなど、他の観客からの苦情、批判も多かった。そのため、球団は札幌ドーム外野前列の自由席を減らすなど対応し、2009年シーズン開幕からは風船を使用した応援は減少傾向にある。
また、球団も公認グッズとして「ピンクビッグハンド」を発売した。こちらは開いた手の形をしており、色も淡目のピンクで非公認のものよりも値段を抑えている。
コント映像集
2006年と2007年の札幌ドームの試合では、7回表のビジターチームのラッキー7の際に、バックスクリーン右のモニターに、各球団を揶揄したコント風の映像が流されたことがあり、以下の他にもいろいろな映像が流された。
- 西武ライオンズ
- * ライオンが猫になる(2006年版)。
- * 伊東監督(当時)が百獣の王ライオンになろうとしたら、顔がミスタードーナツのポン・デ・ライオンのような風貌になってしまい、「熊出没注意」ならぬ「獅子出没注意」が画面に出てくる(2007年版)。
- * ライオンと選手がトマトラーメンが売り物の「けらあん」で「北海道はうまい食べ物が多いなぁ~」とラーメン、寿司、ジンギスカンと次々と食べておかわりしていくが、最後に「ハム食い忘れた!」と気がつく。
- 福岡ソフトバンクホークス
- * 飛んでいる鷹がいつの間にかB.Bが持っている鳥かごに入ってしまう(2006年版)。
- * ホークスと同じソフトバンクグループのソフトバンクモバイルのCMのパロディ。松中信彦が架空の選手ホワイトを紹介。何を言っているのかさっぱり分からないホワイトに和田毅が身長を尋ねると、190cmと答え、和田も「セリフ違うぞ!月980円とか言わないと…」と返す。そのホワイトの正体はファイターズのグリンで、最後に王監督が首を引っ込める(2007年版)。
- * ハリー・ホーク風のキャラクターが主人公のスーパーマリオブラザーズ風の画面。パ・リーグ4球団を模した敵キャラや障害を乗り越え、最後に上げたチャンピオンフラッグにはファイターズの旗がついていた(2007年版)。
- 千葉ロッテマリーンズ
- * 白いカモメを黒く塗ってカラスにしてしまう(2006年版)。
- * 白いカモメが自ら北海道へ飛んでいってしまい、「やっぱ、北の大地は最高だわ~」と言う(2006年版)。
- * 白いカモメの群れが飛ぶ中でソーラン節の歌詞が出て、「打倒ガム」「日ハム丸」の文字が入った大漁旗が出る(2007年版)。
- * マリーンズやロッテの製品に関するカルトクイズ。3問出題され、全問正解者には「あなたは立派なマリーンズファンです」と持ち上げるが、1問でも間違えたら「ファイターズファンになりましょう」と勧誘する(2007年版)。
- * 千葉県名物の落花生を引き合いに出し、「落下傘にならないよう注意してください」とのオチ。(2007年版)。
- * マリーンズの開幕戦ポスターのハム入り大型ハンバーガーに「でも食べ残してますよ…」とツッコミを入れ、「イチバンデ~ス!って言ったのは、うちの監督がイチバンデ~ス!」に対しては「ヘェ~…」と返して、前年の日本一のペナントに対しては「そのフラッグは貸しているだけ。すぐに返していただきます」と要求すると、「返せそうにないですね!」と返す(2007年版)。
- オリックス・バファローズ
- * 暴走する猛牛がパ・リーグ4球団のマークを突き飛ばすが、ファイターズのマークだけは突き飛ばせない(2006年版)。
- * 牛同士が囲碁で勝負するが、盤面に日本ハム側の白い石でファイターズの「F」という文字が浮かぶ(2007年版)。
- * 牛が落語家「猛牛亭牛スジ」としてコリンズ監督に関した小噺(ユウコリンとの関係)を披露するが、ウケずに終わる(2007年版)。
- * 牛が「がんばれ~バファローズ!!」「奇跡を呼び込む男、笑顔で決めろ…」「かなりええ感じやな…」「いてまえ~」とたこ焼きを作っていくが、焼き上がるとファイターズのマークが付いたものになっており、「無理やりやん!こんなオチないで~」と憤慨して、「来年もくるで~」と吐き捨てる。
- 東北楽天ゴールデンイーグルス
- * 野村監督が流鏑馬でファイターズのマークを射るが、外してしまう(2006年版)。
- * 野村監督が居眠りをして胴上げされる夢を見るが、実際はヒルマン監督(当時)が胴上げされている(2006年版。この年はファイターズが優勝したため、最終的に正夢になった)。
- * 武田勝等のシダックス野球部出身者が野村監督のお礼参りで楽天戦で大活躍、今日も活躍することで野村監督に恩返し(2006年版)。
- * 野村監督が嶋基宏に「キャッチャーは、ささやき戦術で相手バッターを惑わすこともせんとな…」と教えたが、打席に立ったのは日本語が通じないセギノール(当時所属)。当然嶋はどう声を掛けたらいいか分からず、投手へのサインを決められない。しまいには12秒ルールで審判からボールが宣告され、首をかしげる野村監督だった(2007年版)。
- * 野村監督が運を天に任せるという発言をしてパチンコ「海物語」風のリーチ画面に。天の文字が3つ揃うが、「走った」という表示で再抽選になりファイターズのマークが揃う(2007年版)。
- 中日ドラゴンズ
- * 名古屋城のしゃちほこの顔がB.Bになっている(2006年版)。
- * 「オレは昔プロを目指してたからな」と落合監督がボウリングでストライクを連発、パーフェクトにリーチがかかる。「勝負の方程式でパーフェクトだ!」とボールを投げるが、ピンを1本残してパーフェクトを逃してしまう。その残ったピンにファイターズのマークが描かれている(2007年版)。
- 阪神タイガース
- * 紙相撲でタイガースとファイターズのマークを付けた力士が戦い、ファイターズが勝利、ファイターズのマークが付いた座布団が舞う(2006年版)。
- * B.Bとトラッキーのパペットが札幌ドーム前でタカアンドトシ風の漫才をする(トラッキーがタカ、B.Bがトシ役)。しばらくすると札幌ドーム付近に激しい揺れが起こり、地震かと思ったら「稲葉ジャンプ」をするファンが震源だったので、2人で「稲葉か!」と突っ込む(2007年版)。
- 東京ヤクルトスワローズ
- * 東京音頭に合わせ、たくさんの傘が上下に踊る画像が流れ、それらを上から見た画像がズームアウトすると"FIGHTERS"の文字が見える(2006年版)。
- * フジテレビで現在放送中の、『ネプリーグ』のファイブツアーズのような形式で、LEVEL1「占冠(しむかっぷ)」→LEVEL2「興部(おこっぺ)」→LEVEL3「花畔(ばんなぐろ)」といった北海道の地名の読み方クイズが出題される。そして、「どうでした?」→「ゲーム中の考えすぎには注意してください」→「最後に勝つのはファイターズ」と結ぶ(2007年版)。
- 読売ジャイアンツ
- * インベーダーゲームに似た映像が流れ、B.BがUFOから発射した弾で自機がやられてゲームオーバーになるが、"GAME OVER"の「G」がジャイアンツのロゴの「G」になっている(2006年版)。
- * 都市伝説という名の童話・「ウサギとカメ」のパロディ。巨人のキャラクター・ジャビット(ウサギ役)と亀が競走して、独走だったジャビットは余裕綽々で「紳士の身だしなみ」としてひげを剃る(巨人に移籍してヒゲを剃った小笠原道大を意識している可能性もある)が、その間に亀がジャビットを抜いて勝った。「こつこつ最後まで一生懸命歩いたカメ君が先にゴールしました」→「そして、そのカメは羊ヶ丘で札幌ドームになりました」とナレーションが出て、その亀が札幌ドームに変身する。(2007年版)。
- 広島東洋カープ
- * 1塁ベースを投げるブラウン監督の映像を映し、「ベースの行方にご注意ください」というメッセージを流す(2006年版)。
- * 鯉が熊に食べられる(2007年版)。
- 横浜ベイスターズ
- * 横浜の夜景に輝く星にどこからかファイターズのマークが飛んでぶつかり、星がファイターズのマークでもある七芒星になる(2006年版)。
- * ヒット商品の製作にあたって、まずリーゼント型ヘルメット(これは三浦大輔の髪型をモチーフとしている)を提案するが、機能的ではないと却下。次に「遠くのモノも楽々取れるマジカル・レッグ」が提案されたが、これは種田仁(当時所属)のガニマタ打法をモチーフとした、玩具のマジックハンドのようなもので、足でFのマークが入ったボールをキャッチ(2007年版)。
ラッキー7を6回裏に
2009年より日本ハム主催試合では、ファイターズのラッキー7を6回裏に行う事になった。
これは、6回の得点が最も多いため、ラッキー6としたもの。{{要出典}}
これと同時に、前年まで7回裏にラッキー7のBGMとして流れていた「GO!GO!ファイターズ」に代わり、4月中は移転前のラッキー7のBGMであり、移転後も前年まで5回裏にBGMではなく応援団のトランペット演奏で流していた「ファイターズ讃歌」を再びラッキー7のBGMとして流していたが、5月1日の埼玉西武戦からは「ファイターズ賛歌」に代わりラッキーイニングに日本ハムの新応援歌「La La La FIGHTERS」を流すようになった。
場内アナウンスでも6回裏の攻撃の際に、「6回の裏、ファイターズ、ラッキーイニングの攻撃は…」と流している。
なお、ファイターズの7回裏には逆に何のイベントもなくなり、ビジターチームのラッキー7は通常どおり7回表に行っている。ただし札幌ドームのみ、B☆Bバズーカを6回表終了から試合開始前(2009年は7回表終了)に移動した。
チーム成績・記録
- リーグ優勝 5回 (1962年、1981年※、2006年 - 2007年、2009年)
- 日本一 2回 (1962年、2006年)
- アジアチャンピオン 1回 (2006年)
- セ・パ交流戦優勝 1回 (2007年)
- Aクラス 25回 (1959年、1961年 - 1967年、1978年 - 1983年、1987年 - 1988年、1993年、1996年、1998年、2000年、2004年、2006年 - 2009年)
- Bクラス 39回 (1946年 - 1958年、1960年、1968年 - 1977年、1984年 - 1986年、1989年 - 1992年、1994年 - 1995年、1997年、1999年、2001年 - 2003年、2005年)
- 連続Aクラス入り最長記録 7年 (1961年 - 1967年)
- 連続Bクラス最長記録 13年 (1946年 - 1958年)
- 後期優勝 2回 (1981年後期、1982年後期)
- レギュラーシーズン1位 3回 (2006年 - 2007年、2009年)
- 最長連勝 14連勝 (2007年)
- 最多勝 83勝 (1961年)
- 最多敗 80敗 (1956年)
- 最多引分 13分 (1984年)
- 最高勝率 .642 (1961年)
- 最低勝率 .364 (1955年)
- 最小ゲーム差 1.0(優勝:2006年)
- 最大ゲーム差 48.0ゲーム(最下位:1956年)
※1981年の優勝はロッテとのプレーオフによる。
その他の記録
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- シーズン最多得点 771点(2000年)
- シーズン最多安打 1370本(2009年)
- シーズン最多二塁打 290本(2009年・日本プロ野球記録)
- シーズン最多三塁打 56本(1961年)
- シーズン最多本塁打 178本(2004年)
- シーズン最少本塁打 40本(1955年)
- シーズン最多打点 735打点(2000年)
- シーズン最少打点 312打点(1947年・2リーグ制以降は1951年の324打点)
- シーズン最多盗塁 185盗塁(1979年)
- シーズン最多三振 1151三振(2005年・日本プロ野球記録)
- シーズン最高打率 .281(2004年)
- シーズン最低打率 .216(1956年)
- シーズン最高防御率 2.39(1961年)
- シーズン最低防御率 4.98(1984年)
- シーズン最多セーブ 48セーブ(2006年・パリーグ記録)
- ゲーム最多得点 22点(1949年11月19日対大陽)
- ゲーム最多安打 28本(2008年10月1日対東北楽天ゴールデンイーグルス)
- ゲーム最多二塁打 9本(2004年5月12日対千葉ロッテマリーンズ、2009年4月19日対埼玉西武ライオンズ・パリーグ記録)
- ゲーム最多三塁打 6本(1946年7月14日対ゴールドスター)
- ゲーム最多本塁打 7本(1950年5月31日対毎日オリオンズ)
- ゲーム最多盗塁 9盗塁(1979年6月5日対西武)
- ゲーム最多犠飛 4犠飛(1982年7月3日対近鉄・日本プロ野球記録)
- ゲーム最多死球 7死球(1979年5月12日対ロッテ・日本プロ野球記録)
- ゲーム最多暴投 5暴投(2003年4月18日対西武・日本プロ野球記録)
- ゲーム最多ボーク 4ボーク(1974年7月17日対近鉄・日本プロ野球記録)
- 5者連続本塁打(1971年5月3日対ロッテオリオンズ10回表・日本プロ野球記録)
- 4者連続二塁打(2009年7月29日対千葉ロッテマリーンズ1回表・パリーグ記録)
- 先頭打者から4者連続二塁打(同・日本プロ野球記録)
歴代本拠地
- 1948年 - 1953年、1962年 - 1963年の学生野球などで使えない場合 後楽園球場(※1)
- 1953年 - 1961年 駒沢球場(※1)
- 1962年 - 1963年 明治神宮野球場(※2)
- 1964年 - 1987年 後楽園球場
- 1988年 - 2003年 東京ドーム
- 2004年 - 札幌ドーム
※1 1953年8月まで後楽園球場を使い、同年9月より駒沢球場へ移転。
※2 学生野球などで使えない場合は後楽園などを使った。
歴代監督
- 1946年 : 横沢三郎 ※1
- 1947年 - 1948年 : 苅田久徳 ※2 ※3
- 1949年 - 1950年 : 井野川利春 (第1次)
- 1951年 : 安藤忍
- 1952年 - 1954年 : 井野川利春 (第2次) ※4
- 1955年 : 保井浩一
- 1956年 - 1960年 : 岩本義行 ※5
- 1961年 - 1967年 : 水原茂
- 1968年 : 大下弘 ※6
- 1969年 - 1970年 : 松木謙治郎
- 1970年 - 1973年 : 田宮謙次郎 ※7
- 1973年 : 土橋正幸 (第1次)
- 1974年 - 1975年 : 中西太 ※8
- 1976年 - 1983年 : 大沢啓二 (第1次)
- 1984年 : 植村義信 ※9
- 1984年 : 大沢啓二 (第2次)
- 1985年 - 1988年 : 高田繁
- 1989年 - 1991年 : 近藤貞雄
- 1992年 : 土橋正幸 (第2次)
- 1993年 - 1994年 : 大沢啓二 (第3次)
- 1995年 - 1999年 : 上田利治 ※10
- 2000年 - 2002年 : 大島康徳
- 2003年 - 2007年 : トレイ・ヒルマン ※11 ※12
- 2008年 - : 梨田昌孝
※太字は優勝達成監督
- ※1 この年のみセネタース
- ※2 ここから東急フライヤーズ
- ※3 1948年のみ急映フライヤーズ
- ※4 ここから東映フライヤーズ
- ※5 1960年は前半戦まで指揮、残り試合は保井浩一が代行
- ※6 1968年は8月4日まで指揮、残り試合は飯島滋弥が代行
- ※7 ここから日拓ホームフライヤーズ
- ※8 ここから日本ハムファイターズ
- ※9 1984年は6月26日まで指揮、6月28日までは矢頭高雄が代行
- ※10 1996年は9月9日まで指揮、残り試合は住友平が代行
- ※11 ここから北海道日本ハムファイターズ
- ※12 2005年は7月18日から28日までの6試合を白井一幸が代行
主な出資企業
元々の出資企業である日本ハムの他、北海道内の主要企業が出資している。
グランドパートナー
ゼネラルパートナー
ユニフォームの変遷
東京時代
- 1946年 最初のユニフォームは阪急からのお下がりで、阪急の「H」マークに変わりセネタースの「S」のマークを付けた。
- 1947年 球団名が東急フライヤーズとなり、「Flyers」のロゴが登場。現在のビジター用にあたるグレーのユニフォームには親会社の「TOKYU」のロゴが入っていた。
- 1948年 - 1949年 大映球団と合併し急映フライヤーズとなる。大リーグで使われていたジッパーユニフォームが登場。ビジター用は「FLYERS」で縁取りがブルー。
- 1949年 球団が東急フライヤーズに戻り、ジッパーのロゴは親会社の「T.K.K」に変更。熊のマスコットが描かれている。
- 1950年 2リーグ分裂を機にロゴを変更。左から右に寄るスタイルとアーチ型の2種類があった。
- 1951年 - 1952年 ヤンキースを参考にしたユニフォームが登場。また、縦縞初が登場。ビジター用は「TOKYO」。1954年に「TOEI」となるがデザインはそのまま。
- 1953年 - 1960年 東急時代の晩年から東映の初期に使われたユニフォームのロゴと縁取りは濃紺とオレンジ。1954年から球団が東映となる。ビジター用のロゴを「TOEI」に変更。
- 1961年 - 1967年 水原茂監督就任に伴い、こげ茶とオレンジを基調とした物に変わる。左袖には親会社の東映マークに「TOEI」のロゴが入る。
- ホーム用は「FLYERS」ロゴが大文字になって字体も一新され、頭文字の「F」の字に飛ぶ鳥の隠し絵が施されているという物だった。
- ビジター用は、グレーの地色が淡くなり、胸ロゴが「TOEI」から「TOKYO」に変更される。
- 1967年後半のみ、ビジター用ユニフォームが変更。地色が鮮やかなスカイブルーとなり、縁取り、ライン、東映マークに使われていたオレンジが金糸に代わり、胸ロゴが「TOEI」に戻る。
- 1968年 大下弘監督就任に伴い、赤と青を基調としたユニフォームに変更。帽子は紺色になり、Fマークが変わる。袖、パンツ、ポケットには赤・青の2本ライン、アンダーシャツ、ストッキングは青地、ストッキングには白・赤・白のラインが入る。左袖の東映マークは赤地に白抜き、青のライン。また、Flyersロゴが戦後すぐに使われていた筆記体に戻る。
- 1969年 - 1971年 松木謙治郎監督就任により、モデルチェンジ。赤と紺を基調としたものになる。
- 1972年 田宮謙次郎監督就任により、ニット式ベルトレスユニフォームを採用。前ボタン1個がついたプルオーバー式になる。帽子はTとFを組み合わせたマークになり、ツバが赤。首、袖、腰、パンツに紺と赤のラインがつく。背番号の書体が英国風丸ゴシックになり、ビジター用のみ選手名がつく。
- なお、東映時代6年間のユニフォーム、約600枚が日本ハムになっていた1979年に原宿の古着屋で売られていた。全て背番号入りの本物、一律2900円でその後も10年ぐらいの間売り続けていた
[『野球小僧』、白夜書房、2009年4月号、198、199頁。]。
- 1973年前期 球団名が「日拓ホームフライヤーズ」となり、カラー、デザインは従来どおりで、帽子のマークがNとFの組み合わせとなり、ビジター用の胸のマークが「NITTAKU HOME」(胸番号がなくなる)と、マイナーチェンジが行われる。
- 1973年後期 前年のユニフォームを一新し、7種類のユニフォームを採用する。(#7色のユニホームを参照。)
- 1974年前期 球団名が「日本ハムファイターズ」となり、デザインを一新。紺と赤のカラーは継続しつつも、形状はボタン無しのプルオーバーになる。帽子のマークと左袖には親会社ニッポンハムのブランドマークと「ニッポンハム」ロゴ。パンツのサイドには2本の極太ラインが入る。
- ホーム用は紺(縁取り:赤)の「Fighters」ロゴ。背番号、胸番号の書体は丸ゴシック斜体になる。首、袖、腰、パンツのラインは紺・赤で、紺地のストッキングには赤でニッポンハムのブランドマークの刺繍が入る。
- ビジター用はスカイブルー地に赤(縁取り:白)の「Nippon Ham」ロゴ、ロゴと背番号にはナール式(丸)文字を採用。選手名、胸番号は無し。帽子もスカイブルー、首、袖、腰、パンツのラインは赤・白。
- 1974年後期 - 1981年 ホーム、ビジター用共モデルチェンジされ、ストライプを採用。基本カラーが青とオレンジに変わり、背番号と胸番号(ホーム用のみ)が角文字になり、袖とパンツのサイドラインが消える。首にはオレンジと紺の2本ライン、腰はオレンジ・紺・オレンジの3本ライン。途中、マイナーチェンジを繰り返しつつ、このユニフォームで1981年のリーグ優勝を果たした。
- ホーム用は薄いブルーのストライプ、胸ロゴ、背番号、胸番号は青にオレンジの縁取り。
- ビジター用はスカイブルー地の色合いが変り、紺のストライプ、胸ロゴは白(縁取り・オレンジ)になり、帽子、ストッキングがホーム、ビジター共通になる。
- 1975年から首、腰のラインがオレンジ一色となる。
- 1978年から背中に選手名が付き、これまで背中いっぱいについていた背番号の文字が、大幅に小さくなる。
- 1979年からベルト式にかわり、シーズン途中の7月4日より、ビジター用の「Nippon Ham」のロゴ、背番号の色が逆転し、オレンジ(縁取り白)に変更。
- 経営難でアップすると、継ぎ接ぎが目立つため、取材を嫌がっていた。
[網島利友「プロ野球ユニフォーム物語」より。]
- 1982年 - 1992年 アストロズのレインボー・カラーをイメージしたものにモデルチェンジ。胸ロゴはホーム用、ビジター用とも「Fighters」になり、帽子、アンダーシャツ、ストッキング、スパイクをオレンジ色にした。帽子のマークが「Fighters」のロゴ、ロゴの右下に「TOKYO」の文字の刺繍が入る。
- ホーム用は胸に黄色、オレンジの2本ボーダーラインが入る。左袖の文字は「ニッポンハム」。
- ビジター用は上着はオレンジ色で、黄色、白の2本ボーダーラインが入る。左袖の文字は「Nippon Ham」。
- 1988年から東京ドーム完成を機に帽子の前面部が白くなる。
- 1993年 - 2003年 大沢啓二監督復帰により、デザインを一新。濃紺が主体(帽子、アンダーシャツ、ストッキング)になった。12年ぶりに縦縞が復活(ホームは白地に濃紺の縦縞、ビジターはグレー地に濃紺の縦縞)し、帽子のロゴが「Fs」になる。
- ホーム用は、左胸に濃紺にオレンジの縁取りで「Fs」、右胸に胸番号がつく。
- ビジター用は胸に濃紺にオレンジの縁取りで「NIPPONHAM」、胸番号は左につく。
札幌時代
- 2004年 - 札幌移転に伴い、球団名が「北海道日本ハムファイターズ」となる。ユニフォームを一新。帽子、アンダーシャツ、ソックスが黒になり、袖や襟に青・金色のラインがつく。また、プロ野球初の左右非対称デザインを採用した(右肩は地の色と同じだが左肩が黒、甲冑をイメージしている)。ホーム、ビジター共に胸番号が消える。帽子のロゴは上から“ボール・七芒星・文字「F」”の順に重なったデザインとなっている。ちなみにデザインは同年入団したSHINJOが担当した。
- ホーム用は、「FIGHTERS」、右袖ロゴは「NIPPON-HAM」。
- ビジター用は、上下グレーで「NIPPON HAM」、右袖ロゴは「HOKKAIDO」。
- 2005年シーズン後半 大社義規前オーナーが死去に伴い、右腕に喪章として黒いラインが入る。
- 2006年からユニフォームスポンサーのホクレンのロゴが右肩に入った。
- 2007年 8月17日 - 19日の試合を「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ」と銘打ち、3連戦限定ユニフォームが登場。ユニフォームの胸の部分に「HOKKAIDO」の文字が入り、ユニフォームの生地の色は青、左肩は黒。帽子は本体が黒、つばが青のものを使用。
- 2008年 7月22日 - 27日の試合を「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2008」と銘打ち、6連戦限定ユニフォームが登場。ユニフォームの胸の部分に「HOKKAIDO」の文字が入るのは前年と同じだが、ユニフォームの生地の色は黒、左肩が青。帽子は本体が青、つばが黒で前年とカラーリングが逆転している。
- 2009年 札幌円山球場で6月10日に行われた対横浜ベイスターズ戦を除く道内地方開催の全試合と、9月11日 - 13日の試合を「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2009」と銘打ち、限定ユニフォームが登場。ユニフォームの胸の部分に「HOKKAIDO」の文字が入るのは前年までと同じだが、生地の色は紺色で、左肩と首回り、ボタン部分に北海道をイメージする花でもあるラベンダーカラー(薄紫)を採用。帽子は本体が紺、つばが薄紫(ラベンダー)。
- なお、「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2009」の対象試合は以下の通り。
- * 7月4日 - 5日 対福岡ソフトバンクホークス戦(函館)
- * 7月18日 対埼玉西武ライオンズ戦(釧路)
- * 7月19日 対埼玉西武ライオンズ戦(帯広)
- * 8月18日 - 19日 対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(旭川)
- * 9月11日 - 13日 対千葉ロッテマリーンズ戦(札幌ドーム)。
- ファーム用も原則的には1軍と同じものだが、2008年7月20日・21日の鎌ヶ谷での試合に限り、胸に「KAMAGAYA」のロゴが入り、本体が緑、左肩が白、金色のラケットラインが入り、背中のネームは無しという特別ユニフォームが使われた。帽子は緑に前面が白のものでマークは「K」。
- 台湾プロ野球の中信ホエールズは札幌移転した日本ハムを意識して、2005年から左右非対称デザインのユニフォームを採用した。
- 2010年 - 鎌ヶ谷のユニフォームを一新。胸に「KAMAGAYA」のロゴが入った緑のユニフォームを正式採用。
永久欠番
過去、永久欠番制度および該当者が不在であったが、2009年1月30日球団史上初めて永久欠番制定することが発表された、該当者第一号は野球殿堂入りした大社義規前オーナー、また2009年より0と00の使用をやめ、永久欠番とすることも球団が決めた。
- 永久欠番一覧
- 0 球団永久欠番
- 00 球団永久欠番
- 100 大社義規(日本ハム球団初代オーナー)
準永久欠番(但し球団非公式)
- 86 大沢啓二(元監督。球団史上、他者の着用がない)
マスコット
- ギョロタン
- 球界マスコット第1号。モチーフは太陽。名前の由来は「ギョロ目の舌吉」から。自転車が得意だった。
- ファイトくん
- 翼をつけた戦士にバットとヘルメットをつけた姿。動物の着ぐるみ数体と共に球場を盛り上げた。
- ファイティー(100):声・椎名へきる(1997年 - 2000年)
- 英語表記は「FIGHTY」。東京ドーム時代の翼竜型のマスコット。初代球団オーナー大社義規がモデルといわれており、背番号も同じ100だった。全球団マスコットの中で唯一ユニフォームの裾を出していた。久保田利伸と日本ハムのウィンナー・シャウエッセンのCMにも出演したことがある。当初、北海道移転の際に引退が予定されていたが、ファンによる存続希望の署名活動を受け、北海道移転後も東京ドームでの主催試合限定で登場していた。しかし、B.Bの普及のため2005年8月17日の対楽天戦を最後にマスコットとしての役割を卒業した。
- ブリスキー・ザ・ベアー(212)
- 英語表記は「BRISKY THE BEAR」。愛称「B.B(ビー・ビー)」。モチーフは熊で、背番号212は球団発足当時の北海道の市町村数にちなむ。その後、市町村合併で2006年3月31日には180市町村となったが、当面は背番号は現行のまま。ただし、「B.B」自体は2004年の北海道移転と同時に誕生の後、2005年、2007年にモデルチェンジを繰り返している。
- また、2004年6月3日に放送されたフジテレビのTV番組『トリビアの泉』内「トリビアの種」のコーナーで、プロ野球12球団で一番足が速いマスコットを決めるために高崎競馬場で100m競走をし、15秒9というタイムで1位になった。
- カビー・ザ・ベアー
- 英語表記は「CUBBY THE BEAR」。2006年から2軍戦限定で登場しているB.Bの弟分。ユニフォームの背中には「C★B」と書かれているが、愛称は「シービー」とは呼ばず「カビー」である。3歳のオス熊で、名前の由来は「子どもの熊」という意味の英語の「CUB」から。背番号はないが、B.Bが「一人前になったら(北海道の現市町村数の)180をあげるかもしれない」と語っている。最近では東京ドームでの1軍の試合でも登場し、B.Bと共に活躍している。
- ハムリンズ
- 球団マスコットではなく、日本ハム本社のイメージマスコット。会社のキャンペーンで球場に登場することがあり、登場した際の戦歴は通算8勝1敗である。
歴代の球団歌
年度別イメージソング
球場にて試合前や試合後に流されたイメージソング。歌手は公式戦の始球式にも登場。
- 1993年「WILD DREAM」 (作詞:石岡美紀 作曲:パンタ 歌:立川亮子)
- 1994年「Let's Get A Groove ~Yo! Hips~」 (作詞・作曲・歌:久保田利伸)
- 1995年「Get the Truth!」 (作詞・作曲:長友仍世 歌:INFIX )
- 1996年「あの瞳を忘れない」 (作詞:沢村大和 作曲:野中則夫 歌:BLOW)
- 1997年「太陽」 (作詞:TSUNAMI 作曲:パッパラー河合 歌:TSUNAMI)
- 1998年「Let Love Shine」 (作詞:萩原由美子 作曲:小松建祐 歌:水野由加里)
- 1999年「プラスのスマイル!!」 (作詞・作曲:永井ルイ 歌:CLOVER)
- 2000年「輝け!未来へ~Hit & Run~」 (作詞:門屋陽平 作曲:石川寛門 詞・曲・歌:速水けんたろう)
中日出身である大島監督就任を記念して中日ファンの山本正之氏がイメージソングを作り公認ソングとして発売されたものの、それまでのイメージソングと違い球場で流されたり始球式への登場は無し。
- 2001年:「熱血ファイターズの歌」(作詞・作曲・歌:山本正之)
- 2002年:「熱血ファイターズの歌2002」(作詞・作曲・歌:山本正之)
主なキャンプ地
主な出来事
深夜のダブルヘッダー
東急時代の1953年8月9日、後楽園球場での対近鉄のダブルヘッダーでのこと、17時から開始された第1試合は、延長20回、試合時間は4時間46分におよんだ。結果は4-5で敗戦。当時は同一カードのダブルヘッダー第1試合についてはイニング制限なし、変則ダブルの場合は12回までとなっていた。続く第2試合は22:11に開始されたが、7回の攻撃が終了した時点で当時のナイターの時限だった23:45が過ぎ、コールドゲームで4-4の引き分けとなった。これも深夜の時限が来た場合、9回まで終了しなくても、そのイニングの攻撃完了でコールドとなる当時のルールによるものである。
チーム名が東映に変わった翌1954年10月10日、大阪球場で行われた近鉄戦で、今度は延長23回のパ・リーグ延長イニングス記録を作った。この時は近鉄に0-1のサヨナラ負けを喫している。
また、1981年10月10日のプレーオフ・ロッテ戦の第1試合(川崎球場でのビジター、9回5-5の引き分け)では、参考記録ながら5時間17分のロングゲームを戦った。
現在ではルールが改定されており、ダブルヘッダーの場合、第1試合の終了が20:40を過ぎたら第2試合は行わない取り決めとなっている。
日本シリーズ2人のMVP
1962年の日本シリーズで阪神を4勝2敗1分けで下して優勝したが、MVPは異例の2名選出(土橋正幸投手と種茂雅之捕手)となった。この時はMVPの賞品が協賛スポンサーの関係から多くなったことや、両選手のバッテリーの活躍が優勝に大きく影響したのではないかともいわれている。土橋には自動車、種茂には家電製品が分け合えられたという。この「MVP2名選出」はこの年だけだった。
7色のユニフォーム
1973年2月に東映フライヤーズを買収した日拓ホームの西村昭孝オーナーは、低迷するパ・リーグに活気を取り戻そうと、この年の後期リーグで7種類のユニフォームを作り、選手に日替わりで着させるという画期的な試みを行った(前期に使ったユニフォームは基本的に東映時代のデザインを踏襲したものだが、袖や襟のラインに使われた赤と青が入れ替わるなど、若干のマイナーチェンジが施されていた)。その7種類とは
- 全身がオレンジで、袖にラインが入る
- 肩から袖の下、パンツに至るオレンジの太いラインが入る
- 上着がセパレートタイプで、上が紫、下が白
- 袖がブルーでロゴが赤く、背番号の後ろに太いラインが入る
- 全身が黄色で、肩・パンツに黒いライン
- 全身が黒で、袖の下からパンツに至る太い黄色のライン
- 全身が青で、肩に太いラインが入り、パンツのラインが白
というものだった。だがシーズン終了後、日本ハムに再身売りしたためこの7色のユニフォームはわずか3ヶ月ほどでお蔵入りとなってしまった。前半4種類がホーム用、後半3種類がビジター用である。
当時のチーム在籍者からはこんな証言も得られている。
- 土橋正幸監督「ダブルヘッダーの第1試合で勝ったユニフォームをゲン担ぎのため第2試合でも着ようと思っていたら、球団から『せっかく7種類も作ったんだから別のユニフォームで戦ってほしい』と言われた」
- 新美敏投手「先発ローテーションに入っていたので、どれか忘れたが1種類だけ着ていないユニフォームがある」
- 千藤三樹男外野手「球団で予備のユニフォームを用意していたため番号違いで試合に出た選手はいたかもしれないが、どのユニフォームを着るか選手の間で混乱したという覚えはない。それよりも当時は阪急が優勝争いに加わっていたので、阪急西宮球場での阪急戦では、悪役に徹するために黒いユニフォームで試合をしたことが印象に残っている」
一試合で全ポジションを守る
1974年9月29日の対南海戦(後楽園)で、高橋博士捕手が「1試合で全ポジションを守る」という日本球界初の珍記録を作った。
当日、後期リーグはロッテが優勝を決めた後の消化試合。そこでファンサービスとして中西太監督は、内野手の経験も持つ高橋に全ポジション挑戦をするように企画した。
1回から一塁手→捕手→三塁手→遊撃手→二塁手→左翼手→中堅手→右翼手→投手の順番でポジショニング。特に投手は初経験だったので不安もあったが、対戦相手が投手の野崎恒男だった。カウント1ストライク2ボールからセンターフライに仕留めたところで「投手は1人だけで充分」と降板した。
オールスター組織票問題
1978年のオールスターゲームのファン投票で、パ・リーグの9ポジションのうち8人を日本ハム勢で占めた(投手:高橋直樹、捕手:加藤俊夫、一塁手:柏原純一、二塁手:富田勝、三塁手:古屋英夫、遊撃手:菅野光夫、外野手:ボビー・ミッチェル、千藤三樹男。外野手の残り1枠は阪急の福本豊)。原因はファンクラブ「少年ファイターズの会」が呼びかけた組織票であることが発覚したが、この年の前期の日本ハムは3位ながら29勝31敗5分けと負け越したことからファンからの批判が続出。このため、事態を重く見た球団側は古屋と菅野の出場辞退を発表した。古屋は翌年にオールスター初出場を果たしたが、菅野は結局オールスターに出場することはできなかった。
野球用具未着事件
1979年7月13日、日本ハムの対戦相手の南海は、前日に近鉄と日生球場でナイターを行い、当日移動で後楽園球場での試合に臨む予定になっていた。
ところが、東名高速道路の日本坂トンネル内で発生した火災事故(日本坂トンネル火災事故)の影響による大渋滞に巻き込まれて選手の野球用具が球場になかなか到着せず、代わりの野球用具を調達することもできないため、やむなく試合を中止した。
敬遠球をホームラン
1981年の西武戦(平和台球場)で、主砲の柏原純一は永射保から敬遠の球を打ってホームランにした。
ちなみに、この試合における日本ハムの安打は、この柏原のホームランの一本のみである。
後楽園シリーズ
1981年の日本シリーズでは、藤田元司監督率いる巨人と対戦。同じ後楽園球場を本拠地にするチーム同士の対戦となり、史上初めて全試合同一球場で行われたシリーズとなった(第1戦の始球式は、当時東京都知事だった鈴木俊一が行った)。東京ドーム移転後も2003年までは同一球場シリーズが開催される可能性があったが、2004年に本拠地を札幌に移転したため、今後行われる見込みはない。当時の日本ハムの監督だった大沢啓二は後楽園の社長から「大沢がもう少しやれば、7戦できた」と愚痴を聞かされた。
スト中止試合が影響したプレーオフ進出
日本ハムが北海道に本拠地を移転した2004年は、同時にパ・リーグのプレーオフ制度が設けられた年でもあった(それ以前にもプレーオフ制度はあったが、勝率を問わずAクラス3チームが出場できるプレーオフ制度は初である)。
2004年のシーズン終盤、日本ハムはロッテと残り1チームのプレーオフ進出権を賭けた3位争いをしていた。日本ハムの最終戦前日の9月23日の時点でロッテは全試合終了しており、両チーム共に成績は65勝65敗、勝率.500の同率3位だったため、最終戦の9月24日のオリックスとの試合の勝敗次第で、どちらのチームがプレーオフに進出するかが決まる事になっていた。結果として日本ハムが最終戦に勝利したため、ロッテと僅か0.5ゲーム差の3位となり、プレーオフ進出を果たした。
しかし、2004年はプロ野球再編問題が起こった年でもあった。選手会はこの問題により2004年9月18・19日の2日間計12試合をストライキしたため、日本ハム、ロッテ共に2試合がストで中止となった。その後、この中止試合の代替試合を行うかが焦点となっていたが、ストの意義を半減させない選手会の意向で代替試合は行われなかった。
したがって、もしスト中止試合が代替試合として行われた場合は、その試合結果によっては両チームの順位、及びプレーオフ進出チームがロッテと入れ替わっていた可能性もあったため、スト中止試合は日本ハムのプレーオフ進出に大きな影響を与えた。
延長継投ノーヒットノーラン
2006年4月15日の対ソフトバンク戦(ヤフードーム)で、先発の左腕・八木智哉はソフトバンク打線を9回まで無安打無得点に抑えたが味方打線の援護がなく、試合は延長戦に突入した。八木は10回裏も無安打無得点で切り抜けるとそのまま降板したが、11回裏は武田久が、12回裏はMICHEALが安打と得点を許さず、試合は12回表に取った1点を守りきって、日本ハムが勝利した。
八木自身にはノーヒットノーランどころか白星すら付かなかったが、武田・MICHEALと共に日本プロ野球では1941年以来65年振りの継投によるノーヒットノーランを達成した。過去の継投によるノーヒットノーランはいずれも9回までに2人の投手によって成し遂げられており、延長戦かつ3投手の継投で達成したのは史上初である。
変則2連戦
2006年7月29・30日に行われた対福岡ソフトバンクホークス戦は、札幌ドームがSMAPのコンサートで使えなかったこともあり、29日は函館オーシャンスタジアム、30日は東京ドームに移動して2連戦をこなした。
このように距離の離れた2都市で同じ対戦カードの連戦が行われる事例は、シーズン終盤の予備日でホームとビジターが入れ替わる場合を除けば、2004年6月15・16日の福岡ダイエーホークス対大阪近鉄バファローズの2連戦(15日が東京ドーム、16日が福岡ドーム)以来のケースである(福岡ソフトバンクの当該項参照)。
HAMの方程式
2006年のシーズン、日本ハムは12球団トップのチーム防御率3点台前半を記録する。この年はダルビッシュ有や、新人王・八木智哉などの先発陣の活躍も光ったが、チーム防御率向上にはリリーフ陣の活躍があった。特に武田久とマイケル中村の2人の名前を取ってHisashi And Micheal、略してHAM(ハム)(親会社の日本ハムに引っかけてある)と呼ばれた(元は日刊スポーツの記事による)。武田久は球団新記録の75試合登板を記録し、さらにリーグダントツのHP数で最優秀中継ぎ投手に、マイケルはリーグ新の39セーブ(パ・リーグ史上最高記録)を記録し、最多セーブ投手に輝く。また、岡島が登板した日は(武田のT、岡島のO、マイケルのM)TOM(トム)とも呼ばれていた。時々andを「&」と表現し「H&Mの方程式」とすることもある。
9人のヒーローインタビュー
2008年4月8日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(札幌ドーム)で、打線の奮起で7点差をひっくり返して逆転勝ちし、球団史上最多の野手9人(森本稀哲、田中賢介、稲葉篤紀、高橋信二、ターメル・スレッジ、小谷野栄一、工藤隆人、鶴岡慎也、高口隆行)が試合後のお立ち台に上がった。
試合は、先発の武田勝が2回表に一挙7点を奪われ、序盤から苦しい展開だった。しかし、3回裏に突如乱れた楽天先発の一場靖弘と中継ぎ投手陣を攻め、稲葉、高橋、小谷野のタイムリーなどで5点を取り、4回裏に田中の2ランホームランで追いついた。そして6回裏に無死2塁の場面で高口がバントを空振りし、ランナーの鶴岡が飛び出してアウトかと思われたが、楽天の遊撃手が3塁へ送球したボールが鶴岡の背中に当たってしまい、ボールがそれる間に鶴岡が逆転のホームを踏んだ。その後、そのまま逃げ切り8-7で逆転勝利した。インタビューでは9人全員が1人一言ずつコメントしていた。
平日のデーゲーム
- 2009年6月10日(水) 対横浜ベイスターズ戦
- 照明設備が無い札幌市円山球場で行われる為、13時からの開催となった。交流戦では12球団史上初の平日デーゲームである。
- 2009年8月18日(火) 対東北楽天ゴールデンイーグルス戦
- 照明設備が無い旭川スタルヒン球場で行われるため、13時からの開催となった。なお翌日の19日(水)にも同球場にて13時からの試合が予定されていたが、雨天によるグラウンドコンディション不良のため中止となった。
{{スポーツ現在進行|section=1}}
- 2010年8月2・3日(火・水) 対福岡ソフトバンクホークス戦
- 上記のイーグルス戦と同じ理由で旭川で13時から開催
1960年代ごろまでは照明設備が無い球場が多かったため、ホームでの平日のデーゲームは頻繁にあり、1990年代ごろは消化試合やプレーオフ、日本選手権シリーズでも行われたことがあった。最近では東北楽天ゴールデンイーグルスが、2007・2008年に春休みのホームゲームを一部気候の問題でデーゲームとした例がある。なお、2007年におけるそのデーゲームの対戦相手は日本ハムであった。
雨天中止試合なしのシーズン
2008年の日本ハムは、全144試合を雨天順延せず消化した(コールドゲーム、ノーゲームもなし)。
本拠地が札幌ドームであり、パ・リーグには屋外球場を本拠地とする球団の方が少ない(千葉ロッテマリーンズと東北楽天ゴールデンイーグルスのみ)ため、屋内での試合が多い(2008年は全144試合中の104試合が屋内)とはいえ、全試合を日程通り終えた事は極めて稀で、21世紀以降は全12球団を通して初である。
安打による得点の無い大勝試合
{{by|2009年}}4月16日の対オリックス・バファローズ戦(札幌ドーム)で日本ハムは7-1で勝利したが、その7得点はオリックスのミスや1つのアウトと引き換えに挙げたものがほとんどであり、安打(適時打や本塁打)による得点は無かった。
適時打や本塁打なしでの7得点は非常に稀で、この試合の安打による得点はオリックスの1点(タフィ・ローズの先制本塁打)のみである。
この試合の得点詳細
| イニング |
状況 |
打者 |
結果 |
得点 |
備考 |
| 2回裏 |
無死一・三塁 |
二岡智宏 |
二塁手へのゴロ |
1点 |
併殺崩れの間に三塁走者の小谷野栄一が生還。 |
| 一死満塁 |
田中賢介 |
二塁手へのゴロ |
1点 |
併殺崩れの間に三塁走者の二岡が生還。 |
| 二死二・三塁 |
森本稀哲 |
三塁手の失策 |
2点 |
三塁手の北川博敏が処理したゴロを一塁に悪送球し、三塁走者のルイス・ヒメネスと二塁走者の田中賢が相次いで生還。 |
| 4回裏 |
無死満塁 |
田中賢介 |
暴投 |
1点 |
投手の中山慎也の暴投で三塁走者の二岡が生還。 |
| 無死二・三塁 |
同上 |
犠牲フライ |
1点 |
三塁走者のヒメネスが生還。 |
| 6回裏 |
二死一・三塁 |
稲葉篤紀 |
重盗 |
1点 |
一塁走者の森本が二塁へ盗塁し、捕手の辻俊哉が二塁に送球する間に三塁走者の金子誠が本塁へ盗塁して生還。 |
| - |
北海道移転後の東京ドームの公式戦
北海道に移転した後も、年間でおおむね3カード8試合前後の主催ゲームを引き続き東京ドームで開催している。これは東京にも球団事務所があること、2軍施設は隣県の千葉県鎌ヶ谷市のまま継続されていることと、旧来の在京ファンの存在を考慮したものである。2003年11月に東京ドームで開催された最後のファンフェスティバルで今村純二球団社長(当時)が「札幌移転後も東京ドームで12から15試合を引き続き開催します」と在京ファンの前で約束している。
しかし日本ハムの本拠地ではなくなったことで、パの他球団のオリックス、ホークスや楽天も東京ドームで主催試合を行うようになった。
移転初年度の2004年は主催ゲームを日本ハム12試合の他、ダイエーが1試合、オリックスが2試合の主催ゲームを開催した。このうちオリックス主催分は対戦相手が日本ハムだったため、東京ドームの公式戦で初めて三塁側のダッグアウトを使った[ただし、前身の後楽園球場を含め、オープン戦や1981年の日本シリーズなどでは巨人対日本ハム戦で使った例は多数ある。]。2005年は主催ゲームを日本ハムが10試合、オリックスが2試合(この年も対戦相手は日本ハム)開催し、2006年は日本ハムが9試合、2007年~2009年は日本ハムが8試合、オリックスが2試合開催した。2010年は日本ハムが8試合、楽天が1試合開催される。
2005年より交流戦が開始されたため、巨人主催のビジター戦でも日本ハムは東京ドームでの試合を行っているが、東京ドームでの公式戦は札幌移転後は徐々に減少し、近年は主催試合を3カード8試合、巨人主催のビジター戦2試合を含め計10試合となっている。また、移転当初は土日に多く組まれていた日本ハム主催の試合も、近年は平日の開催がほとんどである(日本ハム主催で土日に東京ドームで開催されたカードは、2007年4月の対ソフトバンク戦が最後である)。なお2009年現在、日本ハム主催の交流戦が東京ドームで行われたことは一度もない。
本拠地移転後、東京ドームでの日本ハム対西武の公式戦は未だに行われていない。これは2003年より西武が札幌ドームを準本拠地として使用する事を計画していたことが関係している[埼玉西武ライオンズも参照。]。
年間数試合となったが、2007年5月17日に田中幸雄の2000本安打、2008年7月15日に稲葉篤紀の1500安打などの個人の名記録、さらにチームとしても、2007年9月19日に勝利してプロ野球12球団で最初にクライマックスシリーズの出場権を獲得するなど、記録となる試合が多い。また、2006年4月18日のヒーローインタビューで、突然SHINJOがこの年限りでの現役引退を表明したのも、この東京ドームでの試合であった。
2009年8月13日の対オリックス・バファローズ戦では、平日ながら33,823人の観客動員数を記録し、移転後の東京ドーム主催試合での最高動員数を記録、同時にこの日の他球場の動員数を全て上回る1位を記録した。
北海道移転後の地方主催試合
北海道移転前の日本ハムは、愛媛県松山市の坊っちゃんスタジアムなど毎年異なる各地で地方主催試合を行っていたが、北海道に移転してからは、前述の東京ドーム以外に、函館オーシャンスタジアム、旭川スタルヒン球場、釧路市民球場、帯広の森野球場、札幌市円山球場(以下それぞれ、函館、旭川、釧路、帯広、円山と略する)の道内球場に限定して地方主催試合を行っている。
このうち、函館、旭川、釧路、帯広の4球場においては、移転当初から函館&旭川、釧路&帯広(道東シリーズ)を隔年で行う構想があり、移転初年の2004年は函館2試合、旭川1試合が行われ、2005年は釧路1試合、帯広1試合、2006年は函館1試合、旭川1試合が行われた。
その後、更なる道内のファン層開拓を狙う方針により、2007年から2009年は4球場とも毎年行われ、函館を2試合、その他3球場を1試合ずつ開催するようになった。
2010年は釧路の開催がなくなり、函館、旭川、帯広で2試合ずつ開催される予定である。
一方、円山においては、2004年のシーズンオフに当時のトレイ・ヒルマン監督が球場を訪れた際に、翌年の2005年に開場70周年を迎える事を聞き、球団に公式戦の開催を要望した事をきっかけとして1試合が開催された。その後2007年、2009年にもそれぞれ1試合ずつ行われた。
上記の4球場とは異なり、まだ毎年行われる事は決まっていないが、行われたこれらの試合はいずれも交流戦である。
これらの5球場にはいずれも、使用時間が日中に限定されているため[円山は17:00、旭川と釧路と帯広は最長で19:00を過ぎると日没コールドが適用される。なお函館は原則最長で18:00までであるが、18:00を過ぎても展開によっては試合続行が可能である。][夜間照明設備が現在設えておらず、冬季の気候の影響もあって今後の設置予定もない事が一因である。]、必然的にデーゲームで開催されることになる。とりわけ平日のデーゲームだと観客動員に影響する恐れもあって、大抵の試合は週末(土曜・日曜)か祝日に行っている。
しかし、先述のとおり、2009年の試合では円山で1試合、旭川で1試合の計2試合で平日のデーゲーム開催を行った。これは、週末の開催を極力札幌ドームで行うことや、未就学児や主婦ら、平日のナイターをなかなか見ることの出来ないファンへの配慮、また旭川での試合は盆休みと重なることで、平日ながら多くのファンを見込めると考えてデーゲームでの開催にしたものである。
地味球団から地域密着球団へ
{{出典の明記|section=1}}
先に挙げた「地域密着姿勢」の原点は1988年、東京ドーム開場初年度にある。
日本ハムの同年の観客動員数は、ドーム初年度の景気もあって2,458,500人(1試合平均37,800人)でパ・リーグ1位。同年最後まで優勝を争った西武や近鉄のそれを大きく上回り、また、セ・パ12球団を合わせても巨人に次ぐ2位で、同年セを制した中日や、5万人超の収容能力を誇る阪神甲子園球場を本拠地とする阪神をも上回った。しかしこの日本ハムの動員数は、いわゆる“ドーム見たさ”の観客が多かったことが原因にあり、巨人戦のチケットが取れなかった野球ファンが、巨人戦に比べて座席に余裕のある日本ハム戦のチケットを購入し、ドーム見物ついでで観戦した、というのがその実情だった。また、当時日本ハムの所属選手の中では前年新人王を争った西崎幸広や、同年西崎と共に最多勝を獲得した松浦宏明ら数人の若手選手が全国的な人気を誇っていたものの、スター性の強い選手が少なく、球団のオフィシャルブックの表紙はほとんどのシーズンで西崎が被写体となっていた。
この間フロントは「ドームさえあれば、何もしなくてもお客さんは来てくれる」と“ドーム景気”に依存してしまい、結果としてファンサービスやチームの補強策は次第におざなりになっていった。試合中の場内演出も乏しく、チームも常時優勝争いをすることができぬまま低迷した。さらに西崎ら主力選手との契約交渉上のトラブルが多発し(結局西崎は1997年オフに西武へトレードされる)、1993年と1996年、1998年には優勝争いに加わるものの、翌年に尻すぼみとなる悪循環を繰り返した。また1993年には福岡ドーム、1997年には大阪ドーム、ナゴヤドームが相次いで開場し、ドームの稀少価値が相対的に低下。皮肉にも観客動員数は1988年をピークに減少[2004年春放送フジテレビ系EZ!TVより]し、某年には夕刊フジ紙上で同社記者の江尻良文に、日本ハムの本拠地移転を促す辛辣な論評を書きたてられた。2003年の動員数は約133万人にまで落ち込んた。
日本ハムはこの反省を教訓に、北海道移転を機にコーポレート・アイデンティティ(CI)の導入を決定し、アメリカのSME社と共同で球団のイメージアップに本格的に着手する。その一環として「地域密着」の方針を打ち出し、北海道内でのチームの認知度アップとファン層開拓を目指した。新庄剛志を獲得したのも、ファン獲得の一環でもあった。移転当初は「北海道は巨人ファンが圧倒的に多い」という現実があったが、道内での野球教室やファンイベントの開催、メディアへの露出促進などといったさまざまな活動が奏功して観客動員数は年々増加。また、トレイ・ヒルマン監督ら首脳陣の下で森本稀哲、ダルビッシュ有ら若手が成長し、高田繁ゼネラルマネージャーらフロント陣の編成策によってチームの戦力層が強化された。
札幌ドームで初めて開幕戦を迎えた2006年に実施した「43,000プロジェクト」は、開幕戦など年間数回にわたってドームを満員にするために行われたスペシャル企画で、開幕戦では42,393人(パ開幕戦3球場中最多)、翌日も29,170人の観客動員を記録するなどいずれも成功し、動員数増加に大きく貢献した。12年ぶりの開幕2連勝を飾ったチームも優勝を争い、シーズン終盤には連日3万人超の観客が札幌ドームを訪れた。そしてチームはパ・リーグ優勝を果たし、日本シリーズでも中日を退けて日本一に輝いた。新庄が引退し、小笠原道大がFAで巨人へ移籍した2007年も2年連続でリーグ優勝し、クライマックスシリーズも制すなど、ピークといわれた前年の観客動員をさらに上回った。また、移転当初は隔年開催だった旭川スタルヒン球場と函館オーシャンスタジアム、釧路市民球場と帯広の森野球場(道東シリーズ)での道内開催公式戦を、4球場とも毎年開催するよう改めた。
しかし、それでも平日(特にシーズン序盤)の試合の観客動員数が2万人を割り込むことが多いため、球団では北海道在住者や午後7時台以降に来訪する観客を対象とした企画チケットを発売するなど、数々の観客獲得策を実施している(#チームの特徴も参照)。2007年には、財政破綻した夕張市の市民を札幌ドームに招待する「夕張シート」を創設し、2009年には札幌ドームのファウルエリアにフィールドシートを増設するなど、さらなる誘客策と地域密着策の開拓に力を注いでいる。
HNFベースボールクラブ
北海道の少年野球愛好家らで、高校進学以後も本格的に野球を続けたいと考える人たちのために開催されている有料会員制の野球教室を毎年10月から3月に開催している。
- 参加資格 入校時に中学校3年生で、高校進学以後も野球を本格的に取り組みたい生徒。硬式・軟式の経験種別を問わない
- 定員 1コースにつき30人
- 実施期間 平年毎年10月から翌年3月で、札幌市のサッポロビール園にあるファイターズ練習場を会場に週1回ずつのコース×3組で練習を開催する。開講は月曜、水曜、木曜の18時から19時半(2009年度実績)
- 入会金 5000円、月謝15000円/月(2009年度実績)
- 2009年度は旭川校、三笠校をそれぞれ毎週土曜日に開催。
- 旭川校 会場・旭川フェニックスセンター。 定員・バッテリーの部(午前9時30分から正午)15名、野手の部(午後1時から3時30分)12名
- 三笠校 会場・三笠ドーム。 定員・20名
ファイターズ応援番組
テレビ
全国向け放送
1990年代当初は東京ケーブルネットワーク制作(試合日によってテレビ埼玉、または千葉テレビ放送と共同制作としたものあり)の番組を、GAORAとスポーツ・アイESPNと本数調整しながら中継した。その後はほぼGAORAの独占となるが、1999年の一時期、J SKY SPORTSと放送本数を調整して中継した試合があった
北海道内
- 終了
- * 『ほくほくテレビ』内ほくほくスポーツ
- 終了
- * すぽーつドーム
- * アンカー!
- * [E]スポーツ
- 終了
- * YASUのえき☆スタ@noon
- * 土曜えき☆スタUP
- * えき☆スタ1
- * えき☆スタ発
道内の地上波局が全てファイターズ主催試合の放映権を持っているのも特筆すべき点である。中でも2008年まではTVhが一番力を入れていた[これは、TXN系列自体のゴールデンタイムにおける全国ネット番組の縛りが緩く、まとまったローカル差し替えが容易なためといえる。同じ系列のTVQ九州放送も同様の傾向で福岡ソフトバンクホークスの中継に積極的である。]。
ただし、TVhは札幌・旭川・函館・室蘭を中心にした道央と道南のほぼ全域、道北の一部でしか見ることができず、帯広・北見・釧路・稚内を中心にした道東全域、道北の一部では見られないことから、これらの地域の視聴者からの苦情が少なくなかった。特に2006年のプレーオフ第2ステージ第2戦で優勝を決めた時はTVhが中継していたため、大量の苦情が殺到した(HBCラジオならびにSTVラジオで聞くことは可能だった。)。しかし、TVhは制作費の削減などの理由から2009年以降の中継を原則として行わないことになったため、苦情の数は次第に収まると見込んでいる。
2009年9月26日は福岡ソフトバンクvs北海道日本ハムの中継を行った。
2006年、2007年の優勝パレードは、全局優勝パレード中継を生放送した。2009年は、互い違いに、NHKを除く全民放が放送。
その他
- 東京12チャンネル時代に『戦国ナイター』で一部試合を放送していたが、その後しばらく主催ゲームの中継が途絶えた。
- 1990年代後半から、日本ハム提供でテレビ中継を再び行うようになった。また、1996年度から2003年度の8年間に渡って、『超野球ファイターズ』と題した日本ハム提供の球団情報番組を、毎週日曜日に放映していた。
- 札幌移転後の2004年4月からは内容を全面的に一新し、球団監修のミニアニメーション番組『超ぽじてぃぶ! ファイターズ』をテレビ東京とテレビ北海道で放送した。開始当初の半年は日本ハムの選手(実名で登場する)をデフォルメしたギャグアニメーション形式だったが、同年10月の放送からストーリー性を重視して「闘魂野球伝」シリーズ、さらに監督が岸誠二に代わり2005年度上半期は北海道の野球少年やファンとの友情を描いた「燃えるぜ!焼けるぜ!」シリーズ、下半期は「燃えるぜ!焼けるぜ!」のメインキャラが野球勝負で魔人にさらわれたファイターズ選手達を救出する「11魔人」シリーズを放送し、2006年3月に終了した。
- 『FIGHTERS EXCITING NETWORK』(1995年 - 1997年。球団公認番組)30分番組で、司会はポップコーン正一・正二。
ラジオ
北海道内
※2006年度までは札幌ドームのナイターを中心に放送していたが、2007年度からはナイターはホームの全試合とビジターの大半、日曜日のデーゲームを中継、その他は巨人戦を放送。デーゲームは日曜日以外はそれぞれワイド番組を優先する関係で主管試合であっても放送することがほぼない。
- Weekly Fighters Press(終了)
- 『G1-MOTION』内G1sports
- DAY-TIME TRIPPERS(木曜日)
- 『AIR-G' Morning Pax』内広瀬哲朗のファイターズ情報(終了)
- 『GOTCHA! 〜Fun's Radio〜』内坪井智哉のツボチカ7(セブン)(終了)
- 『SPICY FRIDAY』内MOTTO FIGHTERS(終了)
- 『ビビッド・クルール』内ファイターズ情報
その他
補足
- 東映時代、同一資本系統の日本教育テレビ(NETテレビ。現在のテレビ朝日)がテレビ中継の優先権を確保していた。球団が日本ハムとなった後、関係は緩やかに解消され、1990年代以降は上述の通りテレビ東京等との結びつきが強くなっていった。
- 1970年代後半のNET→ANB(→EX)との関係が縮小された時、日本テレビ放送網、フジテレビジョンでも主として週末に開催される後楽園主催試合を多数放送したことがあった。最も、日テレは後楽園球場時代に独占的な放映権があり、中継本数が多かった。
- 東京ドーム関連のCATV(東京ケーブル)制作ナイター番組をテレビ埼玉(過去には試合により千葉テレビ放送にも)とGAORA(毎日放送系列のCS)が購入して放送。北海道移転後もGAORAで引き続きナイター中継が放送されている。日本ハム本社は、GAORAに開局当初から出資している主要株主である。
- 1990年代前期、FM富士(当時JFN加盟)が不定期で放送していたラジオ番組『FIGHTERS ROCKS&BASEBALL』があり、日本ハム情報とロック音楽を放送していた。それを同タイトルでテレビ化した番組が1992年秋ごろから1994年ごろまで、テレビ埼玉制作で同局とテレビ神奈川・千葉テレビ放送・びわ湖放送の4局でネットしていた。
- 蛇足だが、テレビ東京並びに全国中継がある試合の戦績はそれほど良くない。
- この他、北海道内のコミュニティFM放送局でも以下の番組が放送されている。
- 三角山放送局(札幌市西区サイトはこちら):金子誠の 『週刊マック』
- FMわっぴー(稚内市)・AIRてっし(名寄市)・FMもえる(留萌市)・FMウイング(帯広市)・FM-G’SKY(滝川市) さっぽろ村ラジオ(札幌市東区)FMパンプキン(恵庭市):「ナイス!ファイターズチャンネル」
- FMメイプル(北広島市エリア)聴いてよメイプル…GOGOファイターズ!!
インターネット中継
2006年6月16日に「Yahoo!動画」上でインターネット配信を開始し、シーズン後半の1位通過争いやプレーオフの時は回線がパンク状態になった。SHINJOの引退セレモニーも中継したが、GOGOファイターズがずっと流れていた。2007年はオープン戦から配信している。CS放送のGAORA映像を使っている。2009年9月22日に「オンエアーステーション」上で2軍戦のラジオ中継が行われた。
脚注・出典
関連項目
外部リンク
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{{北海道日本ハムファイターズ}}
{{日本プロ野球}}
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