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| 『奈良交通』とは |
種類 = 株式会社|
市場情報 = 非上場|
略称 = |
国籍 = {{JPN}}|
郵便番号 = 630-8651|
本社所在地 = 奈良県奈良市大宮町1-1-25|
電話番号 = 0742-20-3116|
設立 = 1929年1月|
業種 = 5050|
事業内容 = 乗合バス事業
貸切バス事業
旅行業
不動産業他|
代表者 = 代表取締役社長 中村憲兒|
資本金 = 1,286百万円|
売上高 = 28,212百万円(2007年度連結売上高)|
総資産 = 35,889百万円(2007年度連結総資産)|
従業員数 = 1,640名|
決算期 = 3月末日|
主要株主 = けいはんなバスホールディングス(61.13%)
近鉄保険サービス(4.77%)
南都銀行(3.22%)
りそな銀行(3.09%)他|
主要子会社 = 奈良近鉄タクシー
奈交サービス
エヌシーバス
奈良郵便輸送
奈良イエローハット他|
関係する人物 = |
外部リンク = www.narakotsu.co.jp/|
特記事項 = 近畿日本鉄道の連結子会社である。|
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thumb|right|社章
thumb|right|新旧塗色(2002年)
thumb|right|旧塗色車側面の「鹿マーク」(2002年)
奈良交通(ならこうつう)は、奈良県を中心に路線バス、観光バス事業を行うバス事業者。一般路線バスのエリアは一部京都府、大阪府、和歌山県にも伸びる。奈良県の路線バス事業をほぼ一手に引き受ける。近鉄グループの一員(中間持株会社のけいはんなバスホールディングス傘下)。本社所在地は奈良県奈良市大宮町一丁目1番25号。
1929年1月創業の奈良自動車株式会社を中心に1943年に戦時交通統合により誕生。県内に散在するバス事業者を統合したため、設立より現在に至るまで、奈良県の路線バス事業をほぼ独占しており、近畿地区のバス会社では最大手である。旧塗色時代から現塗色に至るまで、ごく一部の車両を除いて車体側面で跳ねる鹿の影絵がシンボルとなっている。近鉄バス・奈良観光バスと共に、けいはんなバスホールディングスグループに属している。
北部では学園前駅や生駒駅等からの新興住宅地への通勤輸送が好調だが、近鉄けいはんな線の開業により従来の路線を大幅に変更する。一方で地形の問題から山間部の路線を非常に多く抱え、そうした事情からも古くから飲食店経営等、副業に力を入れている。特に中南部では2004年現在、本数僅少な路線を中心に廃止、自治体への移管が相次いでいる。2006年10月1日、過疎路線の再編を実施、宇陀市内の路線一部をコミバス化するなど市町村との連携をさらに強化している。また2007年から橿原市コミュニティバスが運行されている。
定期観光バス、奈良県内一部市町村のコミュニティバスの受託運行も行っている。またスクールバスや社員送迎バスなどの運転者派遣業務も行っている。
奈良交通の直接のルーツとなるのは、1929年1月に設立された奈良自動車であるが、奈良交通が営業エリアとする奈良県内における乗合自動車(路線バス)の運行は、1917年5月25日に桜井と大宇陀を結ぶ路線として松山自動車商会により運行されたものに端を発する。これは、関西本線の前身である関西鉄道の駅から山間部への路線として開通したものである。
折りしも大阪電気軌道(大軌)、奈良電気鉄道、信貴生駒電鉄、吉野鉄道や大和鉄道が次々と開業した時期であり、この後1917年10月に明司自動車が開業した畝傍と橿原神宮を結ぶ路線、1919年に南和自動車により開設された五條と下山口を結ぶ路線など、多くの路線が同様に鉄道の主要駅から山間部へ向かう路線として開設された。奈良市内におけるバスの運行開始は郡部よりも遅く、1927年に奈良市長により設立され、1928年1月1日より奈良駅と春日大社を結ぶ路線を定員10名のシボレー5台により運行開始した奈良市街自動車がはじまりとなる。
古来より奈良は観光地として栄えてきたが、奈良市に隣接する春日奥山には明治時代に周遊探勝路が開設されていた。これを奈良県が自動車の通行を可能にするために整備したが、大軌はこの整備費用の大半を寄付した上で、1929年5月25日より「春日奥山周遊バス」の運行を開始した。これは純然たる路線バスの形態を採っており、途中での乗降も可能であったほか、途中下車と乗り継ぎが自由に設定されていた。これが奈良定期観光バスの始まりであるとともに、観光地周遊バスの原型であるともいえる。1932年には若草山の山頂へ路線を延伸している。
この時期、奈良県内には鉄道路線が相次いで開業、ネットワークを構築していったが、同時にバス路線も次々と開設され、1933年に自動車交通事業法が施行された時点では28社が路線バスを運行していた。こうした事業者の乱立は、バス事業者同士の競合を招くことになるが、資本力が小さかったために、1919年に開業した南和自動車が大正末期に経営が行き詰まったため解散するなど、事業の改廃なども目立った。こうした事業統合には、近畿日本鉄道の前身となる鉄道企業も大きくかかわっている。
1929年には大軌が吉野鉄道を合併するのと同時に、吉野鉄道のバス事業は大軌が継承することになり、大軌吉野線自動車が発足した。大軌吉野線自動車は川上線を延長した上、上北山村の今西茶屋で北山自動車・五郷乗合自動車(三重交通の前身の一社)と連絡して三重県側の紀伊木本駅までを結ぶことで、既にこの時期に紀伊半島の縦断ルートを形成していたことが特筆される。この北山自動車は1927年5月に設立されているが、1933年には郡司自動車を買収して営業エリアの拡大を行い、大軌吉野線自動車との競合も生まれることになる。1930年には参宮急行電鉄が鉄道とバスの一貫した輸送体系を構築するべく、松山自動車商会の路線を譲り受けた上で室生自動車を設立した。1933年には榛原付近で営業していた植田自動車を買収して参急自動車とした後、1935年に室生自動車と合併させた。
一方、1929年1月には兵庫県の自動車会社の出資により奈良自動車が設立され、中田富次郎らの個人営業により運行されていた奈良駅と法隆寺を結ぶ路線を譲り受けた上で開業した。その後1932年までの間に他社の買収と合併を繰り返すことで、奈良市内と周辺部に営業エリアを拡大した。しかし、事故の補償などにより経営が悪化したため、全株式を大軌に譲渡することで大軌の傘下に入ることになった。その後も他社の買収と合併を続け、1936年には奈良市内のバスは同社に一元化された。
1937年の日中戦争勃発により戦時体制に入ると、ガソリンの供給規制が行われることになったため、1938年に奈良自動車が木炭バス2台を導入、以後バスの代用燃料化が進められる。この過程では、木炭ではなく薪やコーライトなどを使用する代用燃料車両も登場している。そうした中においても、これまで同様の運行を継続する動きもあった。1938年9月に大軌は「春日奥山周遊バス」を奈良自動車に譲渡し、1939年8月には大軌と奈良自動車の共同出資により山と観光自動車を設立し、1940年1月1日より定期観光バス2コースの運行を開始した。しかし、同年10月にはさらに燃料事情が悪化し、これらの定期観光路線バスも運休を余儀なくされた。
1938年に陸上交通事業統制法が公布されると、政策的に事業者の統合が進められることになった。県北部の統合主体は奈良自動車が指定され、1939年に月ヶ瀬村の月瀬遊覧自動車をはじめとした3社を合併したのをはじめとして、1942年までに合計8社を合併したほか、ハイヤー・タクシーについても統合を進めていった。
一方、県南部では大軌吉野線自動車をはじめとする4社が存在したが、いずれも燃料事情の悪化により経営状況が逼迫していたことから、奈良県の斡旋により交渉が行われ、1940年4月に大軌吉野線自動車と郡司自動車の現物出資による吉野宇陀交通が設立された。吉野宇陀交通は参急自動車と宇陀吉野自動車の株式を譲り受けた上で、1941年に2社を合併させることで東和自動車を設立、さらに1942年に吉野宇陀交通に合併させるという方策を採った。また、吉野郡には大峯自動車・吉野自動車などの4社が存在していたが、1938年に普賢自動車と南和乗合自動車が合併して普賢南和乗合自動車となり、大峯自動車は吉野自動車の全株式を取得し傘下に収めた。1942年11月には、この吉野郡の3社の株式を全て関西急行鉄道(関急)が取得し、関急ではこの3社の経営を吉野宇陀交通に委ねた。
この時点では関急大阪線を境に、県北部と県南部に分けて統合し、二元化を図る予定であったが、1942年の戦時統合の運輸省通牒では、奈良県は全県1社に統合するという方針が示された。1942年11月の時点で、既に奈良県内の全てのバス事業者が関急の傘下にあったことから、実質的にはグループ会社間の事務折衝のみとなり、1943年7月1日に奈良自動車が他の4社を合併した。7月23日には社名変更により奈良交通が発足したのである。
統合により、奈良交通は路線キロ合計が1000kmを超える一大事業者となっていたが、戦時中には満足な営業が出来る状況にはなく、終戦の1945年時点で営業していた路線キロ数は506.8kmでしかなかった。また、稼動可能な車両も119台中72台しかなく、状態も劣悪であった。こうした状況から、戦後はまず車両の復旧に尽力し、1946年6月の笠置線の再開を気に、順次休止路線の復活を進めた。この時、早期復旧が困難な路線においては、公益性の低い路線は廃止されている。その一方で、1948年には三重交通との相互乗り入れにより小口と紀伊木本を結ぶ路線の運行を開始した他、1949年には近畿日本鉄道との相互乗り入れによる大阪阿部野橋行き急行バスを運行するなど、他社との相互乗り入れにより路線網を拡大した。1950年には奈良市内循環バスの運行も再開され、流線型キャブオーバーバスが投入されている。
復興が軌道に乗った1947年10月には「春日奥山周遊バス」の運行を再開し、定期観光バス事業も順次復活させていった。「春日奥山周遊バス」は当初は代用燃料車を使用し、運行も休日のみであったが、1948年には天井が開閉する構造のロマンスシート車両を投入し、平日にも運行されるようになった。また、1950年には「奈良市内名所めぐり」定期観光バスを新設した。
一方、1949年には貸切バス事業も開始した。当初は外国人観光客や連合軍関係者のみが対象であったが、1951年には営業範囲の制限が解除され、学校の修学旅行や一般団体も対象となった。既にこの時期に、オフシーズン対策として初詣、海水浴やスキーなどの会員制ツアーバス企画を打ち出していることは特筆される。1953年には事業区域は奈良県内全体に拡大され、1960年には大阪営業所を設置し大阪府内にも貸切事業を拡大、1961年には京都府にも営業所を設置した。
1961年には全ての車両が大型ディーゼルバスとなった。この年、奈良市内に均一地帯制運賃を導入するとともに、市内定期券の設定などで利便性の向上を図った。折りしも奈良ドリームランドの開園により、利用者が急増している。
既に奈良交通では1954年に奈良から下市・上市に向けた急行バスを運行しており、1958年には奈良と五条を結ぶ急行バス路線が開設されていたが、同時期には十津川村を経由する国道168号と169号の改修も進んでいたことから、五条と新宮を直通するバスの運行を計画した。このルートへの路線バス開設は5社競願となったが、最終的には奈良交通・国鉄バス・熊野交通という沿線3社に免許が下りた。これを受け、1963年3月1日より奈良大仏前と新宮駅を結ぶ特急バスの運行が開始された。また、戦前に路線が開設されていた通称「北山ルート」についても、1961年に奈良大仏前と熊野市駅を結ぶ急行バスの運行を開始、これを三重交通との協定で1963年2月28日より新宮駅まで延長運転を行なった。ここに、奈良交通は紀伊半島縦断路線を2ルート有することになった。
一方、大台ヶ原ドライブウェイの完成に伴い、1961年には上市から大台ヶ原への直通バスの運行を開始した。この路線は1969年には学園前駅からの直通となった。この他にも、1965年には五条と京都を結ぶバスの運行を、1966年には天理から上野市を結ぶ急行バスの運行を開始しているなど、この時期の奈良交通では長距離路線の開設が目立った。
しかし、1960年代以降、日本全国のバスを取り巻く環境に変化が生じるようになる。それはベッドタウンの外延化にともなう輸送力増強と、モータリゼーションの進展に伴う自家用車の増加、それに伴う道路渋滞と過疎地のバス利用者減少である。特に奈良交通の営業エリアにおいては、輸送力増強を要する都市型バス路線と過疎地のバス路線、さらには観光輸送のバス路線などが並存しており、これらの改善を並行して進める必要が生じたのである。
1962年には奈良市内循環線で初めてワンマン化を導入、以後均一運賃区間の路線への展開を進めた。多区間運賃路線については、奈良と五条を結ぶ特急バスにおいて、あらかじめ乗車券を購入する方式によるワンマン化を行なったほか、1966年には整理券方式によるワンマン化を試験的に導入、翌1967年より本格導入を開始した。1971年には後方監視カメラ付バスを日本で初めて導入し、山間部の路線においてもワンマン化を進めた。
近鉄奈良線の通勤事情が1964年の新生駒トンネル開通や難波乗り入れで向上したことから、1965年以降には学園前地区を中心に大規模なベッドタウン開発が行なわれた。これを受けて学園前地区の路線網は急速に拡大された。この過程で、3扉車を使用し、学園前駅発は後払い、学園前駅行きは先払いとすることで学園前駅での乗降をスムーズにするという、ワンマン方式が導入された。これ以外の地区でも、ベッドタウン輸送が増強され、これに対応するために営業所の新設も行なわれた。特に北大和営業所については、生駒営業所に隣接して別の営業所を新設するという、日本では例が少ない2営業所隣接体制として特筆される。これらのベッドタウン輸送は、その後の奈良交通にとって路線バス収入の要となった。
thumb|250px|立席を前提とした2扉マイクロバス
また、この時期の特徴的な施策としては、マイクロバスの積極的な導入が挙げられる。奈良交通では狭隘路線や不採算路線などに積極的にマイクロバスを導入し、利便性の向上を図った。その過程で1986年から導入が開始された立席を前提とした2扉マイクロバスは、日本では奈良交通が初めて導入したものである。これにより、道路整備が不完全なまま団地が造成された際に、道路整備を待たずにマイクロバスで団地路線を開設することで、団地住民のマイカーへの逸走を抑えることが可能になった。この施策をさらに効率的に進めるべく、1988年3月にはマイクロ路線バス専門の子会社としてエヌシーバスを設立した。
一方、過疎化とモータリゼーションにより乗客が減少していた山間部においては、1975年に東吉野村でのスクールバスの運行受託を開始したほか、1980年には十津川村において村内ローカル路線の存続とスクールバスの効率化を同時に解決するため、支線を全て十津川村営バスとした上で、全ての運行業務について奈良交通が受託するという方法を採用した。この方式は「十津川方式」とも呼ばれ、日本のバス業界において注目を集めた。これ以後、自治体の自家用バスの運行などを積極的に受託している。
また、1984年には都祁村などで村内路線をマイクロバスにした上で幹線路線との乗り継ぎを行なう方法を導入した。
なお、1988年4月には和歌山県太地町の南紀開発がバス事業を廃止したことから、奈良交通が路線バスと貸切バス事業を継承しており、奈良交通にとっては新たな事業展開となった。
定期観光バスにおいては、1970年以降は観光客のニーズにも変化が生じたため、時流などを見定めたコース新設が目立つようになった。1972年に高松塚古墳の壁画が発見され注目を集めたことに対応し、1975年に「飛鳥路史跡めぐり」コースが新設されたのをはじめとして、1982年からは季節コースの設定も行なわれた。さらに、観光キャンペーンにあわせた特別コースも設定されるようになった。また、1979年には定期観光バス運行50周年を記念してボンネットバスを投入したほか、1985年には天井をガラス張りにした車両が「奈良公園名所めぐり」に投入された。1987年には、定期観光バスのバスガイド制服を天平風スタイルに変更した。
貸切バスについては、1970年の大阪万国博覧会以降、大型需要は減少したものの、修学旅行などの固定的な需要があったことや、大阪都市圏という需要発生源を控えていることから、大きく発展することになり、営業基盤も強化されていった。
1988年8月、奈良交通では高速バス事業に参入した。まず関東バスとの共同運行による夜行高速バス「やまと号」を運行開始した。その後も1990年までに首都圏へ4路線を新設したほか、福岡線も1990年に開設した。また、1994年には関西国際空港へのリムジンバスの運行にも参入し、1998年には伊丹空港への路線も開設している。しかし、路線を取りまく環境の変化により、福岡・埼玉への路線は2000年までに休止となったほか、利用客の多い新宿線にはダブルデッカーの投入も行なわれた。
1990年代後半以降はコストダウンを目的とした路線再編成が行なわれ、路線廃止やエヌシーバスへの移管や管理委託が進められたほか、奈良交通が運行を受託する自治体バスへの転換も行なわれた。また、営業所の統廃合も行なわれ、2営業所隣接体制は1998年に解消された。
その一方で、都市部の路線バスについては改善が進められ、1994年に車椅子リフト付車両を導入したのをはじめとして、1997年にはワンステップバス、1999年にはノンステップバスの導入も行なわれた。また、2000年には鉄道との連絡定期券が新設されたほか、2001年には高齢者用定期券も新設した。同年には奈良市がオムニバスタウンに指定された。2006年には近鉄けいはんな線の開業により、大幅な路線再編を行なっている。
また、観光客輸送についても、パークアンドライドへの取り組みを進めているほか、2007年3月1日からは奈良市内循環線に、レトロ調をイメージし車体に奈良を代表する鹿をデザインした「バンビーナ(愛称)」を運行開始した。
2007年10月1日からは近鉄バス、奈良観光バスと共に、近畿日本鉄道が設立した中間持株会社(連結子会社)のけいはんなバスホールディングスの傘下に移った。
も奈良市内・学園前地区の営業所に在籍している。主要バスターミナルでは3扉車の中央に対応する社員を配置し、運賃収受を行うなどの工夫を行なうことで、乗降時間の短縮を図るなどの工夫をしている。また、中型車は純粋なタイプよりもいすゞLTのような9m大型車が多い(これは三重交通も類似)。
また狭隘路線向け等に2扉式の小型バス(同社ではマイクロバスと呼称)を導入したが、これは日本では比較的早い導入例の1つである(奈良市内でも限定路線に使われた)。奈良県は古くからある建築物を大事にする地盤があり、そのため、道路の改良以前にバスのほうを小さくして運行対応することが認識されていたと思われる。
一般路線車がスケルトン車体に変更された初期の頃は、側面の窓がすべて固定窓となった車両が多かった。特に、奈良市内および学園前地区には長尺・3扉・固定窓という、奈良交通でしか見られない仕様の車両も多く存在した。
夜行高速バス車両は導入当初はスーパーハイデッカーであったが、座席配列が2列-1列となっていた。その後、奈良~福岡線の運行開始時に導入された車両では一部の座席が独立3列シートになっており、その後車両更新時には全席独立3列シート仕様で導入された。2000年代に入り、2階建て車が投入される一方で、コスト削減の観点から他の車両はハイデッカーへ変更されている。昼行高速バス車両は、ハイデッカーでトイレ付、空港リムジン仕様の車両と共用する。車種は2階建て車を除き日野車である。
観光バスは事業規模が大きく、車両の種類も様々である。塗装は日野RSを採用した際に施されていたデザインを現在も使用している。車種は日野といすゞがいるが、一時期はほぼ日野に統一されていた。なお貸切バス車に搭載のTVモニターは全てパナソニック製である(岩手県交通・岩手県北バスも同じ)。但し2009年2月現在、ワンセグチューナー搭載車は無い。
車体側面の鹿の影絵イラストは奈良交通のシンボルとも言える。導入当初アメリカ合衆国のグレイハウンド社のイメージを導入したといわれている。このように由緒があるものであるが、過去に南紀営業所に所属していた車両の中には、太地線専用車として鹿ではなく潮吹きクジラのマークをつけたものもあった。これは太地線自体が奈良交通と異なった会社(南紀開発)の引継ぎであることが影響したものと推察する。
2007年から、市内循環バンビーナで使用されるレトロ調バス(元京浜急行バスの車両で、りんどう号に使われていた。)が導入された。
これまでは新車を購入していたが、最近は近鉄バスの中古車を導入するようになった。ただし、排ガス規制対象地域外で、文化財の多い奈良県での導入ということもあり、コスト削減とはいえ、地元からは環境面での問題が懸念されている。近鉄バスからの中古車は日野・ブルーリボンで、側面窓の色、シートモケット、後部ナンバープレート取り付け位置等に特徴がある。
画像:Narakoutu-Ltd-Exp-bus.jpg|十津川特急バス型車両
画像:Nara-Kotsu-Syaryou.JPG|一般路線バス車両
画像:P-HU226AA-kai-Nara-Kotsu-996.jpg|長尺・3扉・固定窓という奈良交通独自仕様の車両
画像:P-MR112F-Nara-Kotsu-Nanki.jpg|くじらのマーク入りの太地線専用車
奈良交通は1989年から多区間運賃路線についても磁気カードによるバスカードを導入し、これは日本におけるバスカード全体においても早期の導入例であった。現在はICカード型の新型バスカード、CI-CA(シーカ)に移行している。
カードには、通常のバスカードと、昼間時間帯専用(乗車時刻が9:30から15:30までの場合にしか利用できない)でプレミアムが多い(例えば、販売額3000円のカードは4300円分利用できる)「ひまわりカード」の2種類があった。
2006年7月31日で利用終了となりカード読取機は即日撤去され、全営業所の路線でICカード型の新型バスカード、CI-CA(シーカ)に一本化された(詳細はCI-CAの項目を参照)。2007年4月1日にはPiTaPa・ICOCAに対応した。
尚、近鉄系のバスでありながらPiTaPa利用時の割引が一切無い点やPiTaPa定期サービスが無い点で、利用者からの苦情もあり、改善が期待されている。
2007年6月1日より、CI-CAプレミア率が改訂され、通常カードは1割、ひまわりカードは2割のプレミアになった。同時に日曜と祝日は終日ひまわりタイムとなり、割引率の高いひまわりカードが一日中使えるようになった。
また、関西大手私鉄系のバス会社でありながら、スルッとKANSAI(磁気カードおよび3Day・2Dayチケット)には対応しておらず、他府県からの利用者からは利用し難いという声もあり、改善が期待されている。
十津川地区では幹線的な路線を奈良交通が直営し、支線を十津川村に移管し、運行・管理を奈良交通が担っている。このような方式は「十津川方式」とされ、他地域の参考とされた。
等
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